1529年~1575年(享年47歳)
山県 昌景(やまがた まさかげ)は、甲斐武田家に仕えた武将です。

武田四天王・武田二十四将に数えられる名将で、武田最強といわれる「赤備え」部隊を率いて戦いました。

山県昌景の生まれ

昌景は享禄2年(1529年)に武田信虎家臣・飯富道悦の子として生まれたとされ、武田家の譜代家老・飯富虎昌は兄、もしくは叔父に当たるといわれています。

昌景ははじめ武田信玄の近習として仕えて信濃侵攻で初陣し、天文21年(1552年)に信濃攻めの功績で騎馬150持の侍大将に任命されます。

昌景はその勇猛果敢な戦いぶりから、「源四郎(昌景の仮名)の赴くところ敵なし」と称賛されました。

順調に戦功を挙げ続けた昌景は、永禄6年(1563年)に武田の譜代家老衆に列せられて300騎持の大将となります。

義信事件

永禄8年(1565年)、信玄の嫡男・武田義信と彼の傅役だった兄(もしくは叔父)の虎昌が信玄に謀反を起こしましたが成敗され、虎昌は自害しました。

虎昌の処断は、反乱へ参加を促されていた昌景が信玄に報告したためともいわれています。

その後、昌景は虎昌が率いていた赤備え部隊を引き継ぎ、飯富姓から信玄の父・信虎の代に断絶していた山県家の名跡を与えられて山県昌景と名を改めました。

元亀3年(1572年)に信玄が西上作戦を始めると、昌景は秋山虎繁と別働隊を率いて信濃から三河に侵攻し、三河八名郡の柿本城、遠江井平城を落として南進し、浜松城攻めに貢献しました。

長篠の戦い

元亀4年(1573年)の信玄没後、昌景は馬場信春と重鎮の筆頭として武田勝頼を補佐しましたが、勝頼とは折り合いが悪く、疎まれたといわれています。

天正2年(1574年)、勝頼の東美濃侵攻における明智城の戦いで、昌景は救援に来た織田信長3万の軍勢を、山岳の地形を利用して6000人の兵で撃退し、更に信長の親衛隊16騎のうち9騎打ち取るなど、信長を瀬戸際まで追い詰める活躍を見せました。

天正3年(1575年)の長篠の戦いで、300騎を率いた昌景は武田軍左翼として徳川軍と対峙しましたが、突撃中に鉄砲隊の攻撃を全身に受け、采を咥えたまま絶命したといわれています。

「信長公記」で織田軍が討ち取った敵将の欄には昌景の名が一番に記されていることから、昌景の武勇は敵方にも広く知れ渡っていたことがうかがえます。

逸話

昌景の身長

昌景は身長130cm~140cmの小柄で体重も軽く、風采の冴えない人物だったといわれていますが、戦場では「信玄の小男出たり」と恐怖する侍大将もいたほど敵方から恐れられ、武田家中でも股肱の重臣(一番頼みとする人物)と評価されていました。

武田赤備え

山県隊は部隊の軍装を赤色に統一したことから「赤備え」と呼ばれ、赤備えを見れば勇猛な兵も震え上がるといわれるほど、諸大名から畏怖されていました。

信玄の異母弟・一条信龍が昌景に「山県隊はなぜ強いのか」と訊ねると、「訓練も重要ですが、一番大切なのは戦に臨む心がけで、いつも初陣のような覚悟で慎重に策を練り、勝てると思っても確信しない限り戦わないようにしているからです」と答えたといいます。

昌景没後はその武運にあやかり、徳川家康の重臣・井伊直政や真田昌幸の次男・真田信繁らも赤備えを採用しました。

白猿伝説

越後の上杉謙信と争いを続けていた信玄は、謙信を攻める布石として飛騨攻めを行い、昌景は大将に任命されて松本から梓川(あずさがわ)へ軍勢を率いて峠越えしました。

しかし、頂上へ辿り着く頃には皆疲れ切り、更に硫黄岳の毒霧に倒れる人々が続出し、何とか平湯(岐阜県高山市)まで辿り着いたところ、老いた白猿が昌景らの前を歩いて道端の泉に飛び込みました。

白猿が入った泉が温泉だと知ると、兵士たちは我先にと湯に浸かって元気を取り戻したといわれ、やがてこの逸話が広まって平湯温泉を訪れる人が多くなったといわれています。