六文銭

六文銭
1512年~1574年(享年62歳)
真田 幸隆(さなだ ゆきたか)は、甲斐武田家に仕えた武将です。

武田二十四将の一人で、戦国の三弾正と呼ばれる高坂昌信の「逃げ弾正」、保科正俊の「槍弾正」に続き、幸隆は「攻め弾正」と称されます。

生まれ

幸隆は信濃国小県郡(長野県東御市)の豪族・海野棟綱の子、もしくは棟綱の娘婿・真田頼昌の子として生まれました。

天文10年(1541年)から武田信虎による信濃小県郡・佐久郡への侵攻が始まると、海野家は武田軍との海野平合戦によって滅亡し、幸隆は箕輪城主・長野業正を頼って上野に逃れました。

信虎は海野平合戦から帰国した同年に武田晴信(信玄)によって追放され、信玄が武田当主となると、幸隆は武田家に仕えて旧領に復帰し、信濃先方衆を務めました。

生涯

武田に仕えた幸隆は天文20年(1551年)、信玄が攻略できなかった村上義清の戸石城を、敵方に内応者をつくる調略でわずか1日で攻略させ、義清を信濃から追放しました。

その功績から幸隆は戸石城と幸隆の旧領地・真田郷を与えられ、天文22年(1553年)に幸隆は戸石城の改修・普請を小山田虎満と行います。

天文22年(1553年)、落ち延びた義清が越後の上杉謙信を頼って亡命すると、信濃の領有を巡って第一次川中島の戦いが起こり、幸隆は最前線に配置されて信濃を守備しました。

永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いでは嫡男・信綱と妻女山の上杉本陣へ夜襲を行い、永禄6年(1563年)には上杉方の岩櫃城、禄8年(1565年)には嵩山城、永禄10年(1567年)には白井城を攻略し、城攻め・調略が得意な謀将であったことから「攻めの弾正」とも称されました。

これらの功績から、真田家は武田家中で外様でありながら譜代家臣と同等の扱いを受け、甲府に屋敷を構えることを許されるなど、信玄も幸隆を信任していました。

永禄10年(1567年)に幸隆は病気で隠居すると家督を信綱に譲り、信玄の駿河侵攻や西上作戦には加わらず、信濃北部、上州方面の守備に当たります。

やがて上洛の途上で信玄は没しましたが、信玄が亡くなった翌年の天正2年(1574年)に幸隆も戸石城で亡くなりました。