1577年~1602年(享年21歳)
小早川 秀秋(こばやかわ ひであき)は、豊臣秀吉の正室・高台院の甥です。
小早川隆景と養子縁組し、小早川家の家督を相続しました。
小早川秀秋の家紋
小早川秀秋の家紋は、丸に違い鎌です。鎌紋の一種で、鎌は農具であり、武器にもなることから五穀豊穣、戦勝祈願などを表します。
小早川秀秋の生まれ
秀秋は天正10年(1582年)、高台院(豊臣秀吉の正室)の兄・木下家定の五男として生まれました。
天正13年(1585年)に義理の叔父である秀吉の養子となり、高台院に育てられて元服後は羽柴秀俊と名乗りました。
文禄2年(1593年)、秀俊は秀吉の提案で小早川隆景の養子となり、隆景が隠居すると小早川家の家督を継いで筑前30万7,000石の(名島城)国主となりました。
慶長2年(1597年)から始まった朝鮮出兵に秀俊は参加し、この戦いの間に隆景が死去すると、秀俊は名を小早川秀秋と改めました。
筑前国の没収・復帰
朝鮮出兵後、秀秋は秀吉によって越前北ノ庄15万石へ減封・転封され、秀秋が国主となっていた筑前は豊臣家臣・石田三成と浅野長政が代官として管理し、太閤蔵入地となりました。
秀秋からの筑前を没収したのは、兵站補給拠点となっていた博多を太閤直轄地とするためであると考えられています。
慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、秀秋は豊臣政権の五大老によって筑前・筑後に復領し、59万石の国主となりました。
関ヶ原の戦い
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、秀秋は西軍に属し、伏見城の戦いに参戦した後は戦線を離れていました。
しかし、関ヶ原決戦の全日に1万5,000の軍勢を率いて関ヶ原の南西にある松尾山城に入城しました。
決戦の最中、徳川家康から東軍に与する催促を受けて秀秋はそれに応じ、松尾山城を下りて西軍・大谷吉継の陣へ攻撃します。
また、家康の鉄砲隊に脅されて東軍に寝返ったという説は創作ともいわれており、実際は開戦直後から裏切ったともいわれています。
秀秋の離反によって脇坂安治・朽木元綱らの西軍に付いていた大名も次々に離反し、追い込まれた大谷勢の諸将も奮戦しましたが、最後には壊滅して吉継は切腹しました。
秀秋ら大名の離反によって西軍は追い込まれていき、敗北した三成は大坂城を目指して逃亡しましたが、その後京都で処刑されました。
最期
関ヶ原の戦い後、秀秋は岡山55万石に加増・移封されて岡山城に入城しましたが、2年後に21歳で急死しました。
死因はアルコール中毒による内臓疾患、肝硬変が原因といわれています。また、秀秋の死後、小早川家は跡継ぎがいなかったため改易されました。
小早川秀秋の墓は、瑞雲寺(岡山県岡山市北区)の本堂に祀られています。
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