小早川隆景
1533年~1597年(享年65歳)
小早川 隆景(こばやかわ たかかげ)は、安芸の戦国大名・毛利元就の息子です。

甥の毛利輝元を補佐し、次兄・吉川元春が毛利家の軍事面を担当、隆景が政務・外交面を主に担当していました。




小早川隆景の家紋

小早川家の家紋は左三つ巴です。

家紋の文様は弓を射るときに手首の内側につけて、弓の弦が腕に当たらないようにする鞆(巴)を由来とする説、神霊のシンボルであった勾玉を図案化した説などがあります。

小早川隆景の生まれ

隆景は天文2年(1533年)、安芸国(広島)大名・毛利元就の三男として生まれ、幼名は徳寿丸と名付けられました。

天文10年(1540年)に安芸の国人領主・小早川興景が死去し、興景の妻が元就の兄・毛利興元の娘であったため、その縁で隆景が養子として小早川家に入ります。

隆景は12歳で小早川家当主となり、安芸の守護大名で毛利家が仕えていた大内義隆の一字を与えられて小早川隆景と名乗りました。

厳島の戦い

厳島神社
厳島神社(広島県廿日市市)

弘治元年(1555年)、陶晴賢率いる大内水軍が安芸に攻めてきましたが、隆景は姉が生んだ娘を村上水軍の大将・村上通康に嫁がせており、村上水軍を味方に引き入れていました。

村上水軍に退路を断たれた晴賢は自害に追い込まれて敗北し、大内家は滅亡します。

弘治3年(1557年)に元就が隠居すると、毛利家の家督は嫡男・毛利隆元が継承しましたが、永禄6年(1563年)に隆元が急死すると、家督は隆元の嫡男・毛利輝元が継ぎ、次兄・吉川元春と隆景は輝元を補佐しました。

木津川口の戦い

木津川
木津川(大阪市大正区)

天正4年(1576年)、石山本願寺が織田信長に包囲されると、本願寺は毛利家に兵糧や武器の援助を要請しました。

毛利軍は毛利水軍・小早川水軍・村上水軍を率いて兵糧を本願寺に搬入する途中、九鬼嘉隆率いる織田水軍と大阪湾木津川で戦います。

毛利軍は鉄砲傭兵・雑賀衆の協力を得ており、雑賀衆は焙烙火矢、毛利水軍は焙烙玉を使って織田水軍を壊滅に追い込み、本願寺への兵糧輸送を成功させました。

天正6年(1578年)、織田水軍が再び本願寺を包囲すると、本願寺は再び毛利家へ援助を要請します。

織田水軍は前回の敗北を受けて火に強い鉄甲船に乗り込み、毛利水軍を一手に引き付け、大砲で一掃する戦法で毛利水軍を壊滅させました。

毛利水軍はこの戦いに敗れて大坂湾の制海権を失いましたが、本願寺への兵糧や武器の搬入は行われたといわれています。




備中高松城の戦い

天正10年(1582年)、毛利の支城・備中高松城が羽柴秀吉率いる織田軍に包囲され、隆景は輝元・元春と3万の兵を率いて援軍に向かいました。

秀吉方の兵も3万と兵力は拮抗していましたが、高松城が水攻めで包囲されると織田軍に勝つのは難しいと判断し、隆景は外交僧・安国寺恵瓊を通じて秀吉との和睦を交渉しました。

しかし、戦いの最中に本能寺の変で信長が死去し、秀吉はその事実を毛利方に隠したまま和睦を結びます。信長死去の報せを毛利方が知ったのは秀吉が退去した翌日のことで、家臣たちは秀吉の追撃を願い出ました。

しかし、秀吉の調略によって毛利の将士は疲弊しており、秀吉の追撃よりも軍内の動揺を鎮めることが先決だったため、元春と隆景は「結んだばかりの約定を破るのは武士の恥」として追撃を許しませんでした。

豊臣政権

信長没後、織田軍で台頭した秀吉は賤ヶ岳の戦いで柴田勝家と戦い、毛利軍は中立を保っていましたが、勝家が敗死すると秀吉に従属しました。

元春は秀吉を嫌っていたとされ、毛利家が秀吉に従属すると隠居しましたが、隆景はその後も積極的に秀吉に協力します。

天正13年(1585年)に秀吉によって行われた四国攻めで、隆景は伊予国の金子元宅を討ち取り、その功績から伊予一国を与えられて独立大名となりました。

しかし隆景は伊予を毛利家に与えられた領土として受領し、自身は毛利家の一家臣という体裁を保ち続けました。

九州征伐

天正14年(1586年)、九州征伐にも隆景は参戦し、その功績から筑前・筑後・肥前1郡の37万1,300石を与えられます。

しかし、毛利家の所領は既に中国地方8か国に及んでいたため、領土が広すぎると公役を十分に勤められないとして隆景は辞退しました。

しかし、隆景の意見は認められず、筑前・筑後を領することになります。

最期

毛利輝元は40歳近くになっても息子がいなかったため、毛利家の跡継ぎとして秀吉は羽柴秀俊(小早川秀秋)を毛利家の養子にしようと隆景に相談しました。

隆景は血縁関係のない秀俊が毛利家の家督を継ぐことに不安があり、輝元の従弟・毛利秀元を養子にすることが決まっていると秀吉に言います。

しかし、後に秀吉から毛利家が疎んじられることをおそれた隆景は、自ら秀俊を養子として迎えることを請いました。

文禄4年(1595年)に豊臣五大老に任じられた隆景は、その後秀俊に家督を譲って隠居し、秀吉から筑前5万150石の隠居領を与えられ、名島城(福岡県福岡市東区)を居城としました。

慶長2年(1597年)、隆元は死去し、米山寺(広島県三原市)にある小早川家歴代の墓地に葬られました。

隆景没後は隆景の甥・吉川広家と毛利秀元が毛利当主となった小早川秀秋を支えていきました。

小早川隆景に関連するおすすめ本