丸に十字

丸に十字
1533年~1611年(享年79歳)
島津 義久(しまづ よしひさ)は、薩摩国の戦国大名です。

弟の義弘・歳久・家久と九州制覇を目指しましたが、豊臣秀吉の九州征伐により豊臣家に降伏し、関ヶ原の戦い後は徳川政権下で島津家を存続させました。




島津義久の生まれ

義久は、天文2年(1533年)薩摩国(鹿児島)大名で第15代当主・島津貴久の嫡男として生まれました。幼名は虎寿丸といい、元服後に13代将軍・足利義輝から一字を受けて義久と名乗りました。

永禄9年(1566年)に父・貴久が隠居すると、義久は家督を相続して島津家の第16代当主となりました。

耳川の戦い

天正6年(1578年)、九州制覇を目指して日向の大名・大友宗麟と、義久率いる島津軍が日向高城川原(宮崎県木城町)で戦いました。

島津軍は大友軍に釣り野伏せという戦法を使い、耳川を渡って攻撃してくる大友軍を討ち取って2千~3千の首級を挙げ勝利し、島津家が日向国を支配しました。

沖田畷の戦い

耳川の戦いで大友家が衰退すると、肥後の大名・龍造寺隆信が台頭し、島津家と争いました。

天正12年(1584年)、義久は肥後の水俣まで出陣し、島津家久を総大将として島原に出兵します。

島津軍の兵力は3千、龍造寺軍は2万~6万と圧倒的な兵力差があったため、島津方は敵兵を沼地に誘き寄せて包囲する戦法を取りました。

誘き寄せられた敵兵は島津軍に銃撃されて混乱状態となり、島津は3千余人の将兵と総大将・隆信を討ち取って勝利し、九州最大の勢力となりました。




九州征伐

1585年(天正13年)、天下統一を目指す豊臣秀吉が私戦を禁じる惣無事令を九州に発布しましたが、義久は源頼朝以来の名門島津に対し、秀吉を「成り上がり者」と評して無視し、大友家の所領である筑前国へ侵攻します。

大友軍の援軍として仙石秀久を軍監とした豊臣軍が九州に上陸しましたが、家久は釣り野伏を使って豊臣方の将兵を討ち取り勝利しました。

しかし、天正15年(1587年)に豊臣秀長率いる総勢10万の兵が九州に上陸すると、圧倒的な兵力に九州の国人衆は次々と豊臣に降伏していきました。

島津義弘・家久率いる2万の兵は豊臣家臣・宮部継潤の陣に奇襲を仕掛けましたが、藤堂高虎、黒田孝高の援軍が駆けつけて奇襲は失敗に終わります。

豊臣軍が薩摩まで迫ると義久は秀長に和睦を申し入れ、秀吉と会見して正式に降伏し、本領の薩摩と大隅2か国、日向諸県郡を安堵されました。

江戸幕府

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで島津家は西軍に属しますが、義弘が出陣したのみで義久は薩摩から動きませんでした。

戦後、義久は領内の防衛体制を強化して徳川家康の攻撃に備えます。家康は義久討伐を九州の全大名に命じましたが、国家運営で明と貿易していた船が2隻沈没される事件が起こります。

この事件は島津家によるものといわれ、島津を潰せば旧臣や敗残兵が海賊となり、貿易の妨げになるという脅威を家康に与えました。

その後、義久は「島津が西軍へ付いたのは義弘の独断である」として家康と講和を交渉し、家康が島津の所領安堵を保証すると、義久の代わりとして義弘の子・島津忠恒が上洛し、島津の領国は保たれました。

島津家を誅伐できなかった家康はこのことを悔いて、自分の死後は遺体を薩摩に向けて葬るよう遺言を残したといわれます。

慶長9年(1604年)、義久は国分城(鹿児島県霧島市)を築き、慶長16年(1611年)に同城で病没しました。

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