丸に十字

丸に十字
1535年~1619年(享年85歳)
島津 義弘(しまづ よしひろ)は、薩摩の戦国大名です。島津四兄弟の次男で、兄弟たちと九州制覇を狙って戦いました。

生涯五十三度の合戦に参加し、「鬼島津」の異名で知られる戦国時代屈指の猛将です。




島津義弘の家紋

丸に十字
島津家の家紋は丸に十字です。

平家追討ちで島津家が武功を挙げた際、鎌倉時代に征夷大将軍・源頼朝より拝領した家紋といわれています。

島津義弘の生まれ

義弘は天文4年(1535年)、薩摩国(鹿児島)大名・島津貴久の次男として生まれ、将軍・足利義昭から一字を賜って義弘と名乗りました。

兄・島津義久が島津家の家督を継ぐと、義弘は本国を守る兄を補佐して各地に出陣しました。

木崎原(きざきばる)の戦い

元亀3年(1572年)、日向の大名・伊東義祐が3,000の兵を率いて島津領の飯野地区へ侵攻し、伊東軍は夜間に義弘の居城・飯野城と義弘の妻子がいる加久藤城を包囲しました。

義弘は家臣達に200の兵与えて加久藤城の救援や要所の伏兵に向かわせ、自らは100の兵を率いて飯野城と加久藤城の間に出陣し、釣り野伏といわれる島津独自の戦法で伊東軍を撃退しました。

この戦いは寡兵で大軍を打ち破ったことから、「九州の桶狭間」とも呼ばれています。

九州平定

天正15年(1587年)から豊臣秀吉の九州征伐軍が上陸し、義弘は自らも敵陣に挑み最後まで抵抗しましたが、圧倒的な兵力差の前に島津軍は敗北します。

兄・義久が豊臣に降伏することに義弘は反対しましたが、義久の説得を受けると、豊臣の傘下となりました。

この際、義弘は島津家の家督を兄から譲れらたといわれますが、その後も実権は兄の義久が握っていたため、家督譲渡は形式的なものであったといわれています。

泗川(しせん)の戦い

天正20年(1592年)から秀吉の命令で行われた朝鮮出兵に義弘は参陣し、慶長3年(1598年)からの泗川の戦いでは、明・朝鮮20万の連合軍を7,000人の寡兵で撃破したといわれています。

ただし、明・朝鮮連合軍の中には非戦闘員も含まれているとされ、20万は誤認、誇張の可能性もありますが、徳川家康はこの勝利を「前代未聞の大勝利」と評しました。




関ヶ原の戦い

関ヶ原古戦場・決戦地
関ヶ原古戦場・決戦地(岐阜県不破郡関ヶ原町)

慶長5年(1600年)、会津征伐のため家康が遠征すると、義弘は援軍要請を受け1,000の兵を率いて伏見城に駆けつけました。

しかし、伏見城にいた鳥居元忠が援軍を要請したことは聞いていないといい、義弘の入城を拒否しました。

会津征伐の隙を突いて石田三成が挙兵すると、孤立状態となった義弘はやむなく西軍に付くことになります。

しかし、島津の兵力が僅かであったことから西軍中では重要視されず、決戦時には参陣したものの後詰として配置され、義弘は兵を動かすことはしませんでした。

小早川秀秋の寝返りで西軍諸隊が敗走し始めると、やがて島津隊は退路を遮断されて孤立しました。

島津隊は占拠された西側より、まだ乱戦状態にある東側を抜けて薩摩へ帰るのが壊滅を避ける道と判断し、先陣を島津豊久、本陣を義弘に配置して敵中を突破しました。

島津隊は捨て奸(すてがまり)といわれる、何人かが殿に留まって敵の追撃を足止めし、それが全滅すると新たに何人かが留まって敵の追撃を阻止する撤退方法で伊勢街道まで進みました。

結果、甥・豊久や義弘の家老・長寿院盛淳ら多くの将兵が犠牲となり、撤退時300だった将兵は80名ほどにまで減っていましたが、義弘は無事薩摩へ帰還しました。

この退却線は「島津の退き口」といわれ、全国に鬼島津の名を轟かせました。

江戸幕府

関ヶ原の戦い後、兄・義久が上洛を拒んだため、家康は九州諸大名に島津討伐の命令を下しました。

島津家には1万以上の兵力があり、これを放置しておけば外様大名が再び反旗を翻す恐れがあったためです。

しかし、その最中に幕府と貿易を行っていた明の貿易船が沈められる事件が起こりました。

これは島津家の策略であったといわれ、島津を取り潰せば、旧臣や敗残兵が海賊となり、貿易の妨げになるとして家康を脅迫する意味がありました。

家康はやむなく島津討伐を中止させ、島津家は西軍参加大名の中で、唯一所領安堵を約束されました。

その後、義弘は三男・忠恒に家督を譲って大隅の加治木(姶良市)に隠居し、元和5年(1619年)に85歳で亡くなりました。

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