1558~1584(享年27歳)
森 長可(もり ながよし)は、織田信長に仕えた戦国時代の武将です。槍術に優れた武将で、その武勇から「鬼武蔵」と称されました。




森長可の生まれ

長可は永禄元年(1558年)、森可成の次男として生まれました。元亀元年(1570年)に父・可成と長兄・可隆が戦死すると、長可は13歳で森家の家督を継ぎ、織田信長に仕えました。

元亀4年(1573年)に長島一向一揆攻めで初陣し、織田信忠の部隊として参加しました。その後も信忠配下の武将として長篠の戦い、越中国侵攻、石山本願寺攻め、などに参加し活躍しました。

天正5年(1577年)頃からは内政を行い、兼山城(岐阜県可児市兼山)周辺の区画整理や商業発展に力を入れます。長可が敷いた海魚・塩の専売制は森家が美濃を去った後も続き、明治時代まで存続しました。

甲州征伐

天正10年(1582年)の武田攻めでは先鋒部隊の将として出陣し、高遠城攻めでは城内へ鉄砲で一斉射撃を行って城を陥落させました。本丸制圧でも自ら槍を手に戦い活躍しましたが、武功を挙げようと先走って軍律違反を侵し、信長に書簡で注意を受けました。

武田家滅亡後は信長から恩賞として信濃川中島四郡(高井・水内・更級・埴科)と海津城20万石を与えられ、越後の大名・上杉家の牽制を行います。

本能寺の変

天正10年(1582年)、明智光秀の謀反で信長が討たれると、長可は信長の仇を討とうとします。

しかし信長死亡の報せを受けると、長可配下の信濃国衆たちは長可を裏切ったため、長可は信濃領を放棄せざるを得ず、美濃に撤退しました。

美濃統一戦

本能寺の変後、長可は美濃に帰還しましたが美濃の配下たちも離反しており、長可は窮地に立たされます。そこで長可は離反者が団結する前に先手を打って各個撃破し、東美濃の勢力を拡大させていきました。

領土拡大によって長可は羽柴秀吉丹羽長秀、池田恒興の連名状を受けて、反抗諸氏の領に攻め込む大義名分を得ました。

賤ヶ岳の戦い・立花山の戦い

天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで長可は秀吉方に付き、立花山城に籠城した遠藤清左衛門らを討ちましたが、立花城は中々落ちませんでした。

しかし立花山城は長可による兵糧攻めの策で次第に困窮し、城内の遠藤軍は討死覚悟で総攻撃に出ようとしましたが、織田信孝自刃の報せを受けてやむなく降伏しました。

小牧・長久手の戦い

天正12年(1584年)、羽柴秀吉と織田信雄の争いで長可は再び秀吉に付きます。しかし、羽黒(犬山市)に陣を張った際に徳川家康の奇襲を受けて森軍は総崩れとなり、長可は300人の兵を失って一時撤退しました。

その後、長可は羽柴秀次を総大将とした部隊で戦いましたが、秀次が徳川軍別働隊によって敗走すると、先行していた森軍は孤立しました。長可は井伊直政の軍と戦いましたが、鉄砲隊の狙撃を受けて討ち死にしました。

長可の墓は本源寺(岡山県津山市)、可成寺(岐阜県兼山町)真禅寺(岐阜県可児市)にあります。