丸に十字

丸に十字
1514年~1571年(享年58歳)
島津 貴久(しまづ たかひさ)は、薩摩国の戦国大名です。薩摩を統一し、島津家の戦国大名の基礎を築きました。

息子に島津四兄弟と称される島津義久・義弘・歳久・家久がいます。




島津貴久の生まれ

貴久は永正11年(1514年)、薩摩国(鹿児島)島津の分家、島津忠良の長男として生まれました。

当時、島津の当主は第14代の島津勝久でしたが、貴久は勝久の養子となり、宗家の後継者となりました。

大永7年(1527年)に勝久が隠居すると、貴久は清水城(鹿児島県鹿児島市清水町)に入り第15代当主となりました。

家督争い・薩摩統一

薩州島津家の当主・島津実久は貴久が島津宗家の当主となったことに反対して謀反を起こし、更に島津勝久の当主復帰を要請しました。

大永7年(1527年)、実久の要請を受けて勝久は復帰を宣言し、貴久は勝久との養子縁組を解消されます。しかし、島津の老中達が勝久を追放したため、宗家には最終的に実久が当主として迎え入れられました。

宗家を追われた勝久は再び忠良・貴久父子と結んで実久と戦い、10年以上に及ぶ家督争いを続けて実久に勝利します。

実久が母方の国である豊後へ亡命すると、貴久は薩摩守護の実権と島津家の戦国大名としての地位を確立しました。

大隅国の戦い

天文23年(1554年)、島津家の傘下となっていた大隅国の加治木城主・肝付兼盛が国人衆らに攻められると、島津軍は兼盛を救援するため国人衆・祁答院家の岩剣城を攻めました。

島津軍が岩剣城を攻めて孤立化させると、加治木城を攻めていた祁答院、蒲生ら連合軍2,000の将兵が岩剣城へ援軍に押し寄せましたが、やがて援軍の蒲生範清が島津軍に撃退されると、岩剣城は落城しました。

こうして西大隅が島津家の領土となりましたが、元亀2年(1571年)に貴久は死去しました。




島津貴久の逸話

貴久とザビエル

島津家は室町時代から明や琉球と交易を行っており、貴久は琉球王・尚元王と修好を結んでいました。

種子島の領主・種子島家から鉄砲が献上された際には、入来院家(薩摩の豪族)との戦いで、史上初めて鉄砲を実戦に使用しました。

天文18年(1549年)、フランシスコ・ザビエルが来日すると、貴久は交易目的のためにキリスト教の布教を許可しますが、寺社や国人衆の反対が激しかったことや、南蛮貿易の効果がさほど表れなかったために布教活動を禁止します。

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