1493年?~1561年
山本 勘助(やまもと かんすけ)は、甲斐武田家に仕えた武将です。

武田二十四将の一人で軍師として武田信玄に仕えたとされますが、実在説が問われるなど謎の多い人物であることから、創作では武将でなく忍者など様々な姿で描かれています。

生まれ

勘助は明応2年(1493年)もしくは明応9年(1500年)に生まれたとされ、生国は駿河国富士郡山本(静岡県富士宮市山本)とも、三河国宝飯郡牛窪((愛知県豊川市牛久保町)ともいわれています。

勘助は20代で諸国へ武者修行の旅に出て兵法や武芸を習得し、天文5年(1536年)37歳のときに駿河の今川義元に仕官しようとしましたが、勘助は隻眼で片足が不自由だったことから、義元は勘助を嫌って召し抱えませんでした。

武田家仕官

天文12年(1543年)、甲斐武田家の重臣・板垣信方が「駿河に城取り(築城術)に通じた牢人がいる」との評判を聞き、武田晴信(信玄)に勘助を知行100貫で召し抱えてはどうかと推薦しました。

牢人としては破格の待遇でしたが、勘助は躑躅ヶ崎館で信玄と対面し、勘助の才に感心した信玄は知行200貫を与えて家臣としました。

信玄は勘助と話す内にその知識の深さから勘助を信頼していきましたが、新参者の厚遇を妬んだ家臣の南部宗秀が勘助を誹謗しました。

しかし、信玄は宗秀を改易して勘助に信頼を寄せ、「甲陽軍鑑」によれば、牢人となった宗秀は各地を放浪して餓死したといわれています。

信玄が諏訪侵攻を始めると、勘助は諸国放浪で得た見識と軍略をもって敵方の9つの城を落として知行300貫に加増され、信玄は信濃の大名・諏訪頼重を滅ぼしました。

戦後、信玄は頼重の娘を側室に迎えることを望みましたが、家臣らは姫は武田家に恨みを抱いている、危険だとして反対しました。

しかし勘助のみは姫が信玄の子を生めば、武田家と諏訪家との深めることができるとして、信玄は勘助の意見を容れて姫を側室に迎えます。姫は諏訪御料人と呼ばれるようになり、信玄の跡継ぎとなる武田勝頼を生みました。

戸石崩れ

天文19年(1550年)、信玄が信濃小県郡の村上義清を戸石城で攻めましたが、村上軍の守りは固く、反撃を受けて武田軍は大敗しました。

このとき勘助は敗走する兵をまとめて追撃してくる村上軍を撃退し、この功績から知行800貫の足軽大将となります。

勘助の巧みな采配は武田家中でも「摩利支天」のようだと畏れられ、この頃には勘助の軍略が他の家臣にも認められていきました。

第四次川中島の戦い

天文22年(1553年)、勘助は信玄の命令で川中島に武田軍の拠点・海津城を築き、永禄4年(1561年)に越後の上杉謙信は1万3000の兵を率いて海津城に侵攻してきました。

勘助は妻女山に陣を敷く謙信を別働隊に奇襲させ、本隊と挟み撃ちにする啄木鳥戦法を提案し、信玄はこれを容れて高坂昌信馬場信春率いる兵1万2000の別働隊を妻女山へ向かわせます。

しかし、謙信は武田軍の攻略を見抜いており、別働隊が妻女山に辿り着いた頃にはそこに謙信はおらず、信玄は戦力が半減した状態で上杉軍と戦うことになります。

謙信は信玄を討ち取ろうと攻め立て、信玄もこれに対抗しましたが、武田の武将は相次いで討ち死にし、勘助も献策した責任から上杉軍へ突撃し、戦場で討ち死にしました。

勘助は実在した?

勘助の経歴のほとんどは江戸時代初期、17世紀初頭に編纂された「甲陽軍鑑」によるもので、更に甲陽軍鑑は内容に矛盾点が多い理由から史料としての信憑性に欠けるところがあり、勘助の実在性も疑われていました。

しかし、昭和44年(1969年)の大河ドラマ「天と地と」の原作者・海音寺潮五郎が勘助架空説を唱えてドラマに登場させなかったことがきっかけで、それに触発された北海道釧路市在住の視聴者が先祖伝来の古文書「市河家文書」を発掘し、そこに山本菅助の名が記されていました。

こうした経緯から軍艦に記されている勘助の経歴は後世の創作とされていますが、山本菅助という武将がいたことは事実で、勘助の実在説は認められることになりました。