武田菱

武田菱
1526年~1567年(享年42歳)
武田 義統(たけだ よしずみ)は、若狭の戦国大名で、若狭武田家8代目当主です。

将軍・足利義晴の娘を正室に迎えて幕府に接近しましたが、結果、義統に反発する勢力争いが激化し、内乱の最中に亡くなりました。

武田義統の生まれ

武田義統は大永6年(1526年)、武田信豊の長男として生まれました。義統は足利義輝に重用され、天文17年(1548年)には義晴の娘(義輝の妹)を正室に迎えます。

永禄元年(1558年)家督継承をめぐって弟・武田元康と元康に付いた父と争い、義統は信豊を近江国に追放して当主となります。

永禄4年(1561年)には信豊と和睦したものの、重臣・逸見昌経の反乱が起こり、越前国の朝倉義景の援助を受けて鎮圧させました。

若狭内乱

永禄8年(1565年)に足利義輝が三好三人衆らに暗殺されると、義統は義輝の弟・足利義昭から将軍就任への協力を求められました。しかし、若狭では反義統勢力が息子・武田元明を擁立して反乱を起こしていたため出兵できませんでした。

義統は実弟の信景を室町将軍家に出仕させましたが、やがて義昭は朝倉家へ移り、義統は永禄10年(1567年)に死去しました。

家督は子の元明が継ぎましたが、まだ幼児であったことから朝倉家で保護されることとなり、若狭は次第に朝倉家の勢力が浸透していきます。やがて朝倉家が織田信長に滅ぼされると、元明は信長の重臣・丹羽長秀の与力とされました。