1487年?~1550年(享年64歳?)
横田 高松(よこた たかとし)は、甲斐武田家に仕えた武将です。
弓矢の巧者で武田二十四将の一人に数えられ、子孫は江戸時代に徳川家の旗本となりました。
生まれ
高松は長享元年(1487年)頃に近江国甲賀郡に生まれたとされています。
高松の先祖は平安時代末期の武将・佐々木秀義の末孫・佐々木義綱が、浅井吉高に属して戦功があり、その功として近江の横田川和泉村の畔に采地を受け、家号を「横田」と改めたのが始まりといわれています。
高松は初め近江守護・六角家の家臣として仕えていましたが、時期や事情は不明なものの、後に一族を率いて近江から甲斐に入り、甲斐守護・武田信虎に仕えました。
信虎・信玄時代
高松は弓矢の巧者であったことから武田家中で即座に騎馬30、足軽100人を与えられ、足軽大将として甘利虎泰の相備えとなります。
その後は信虎の甲斐統一のため転戦し、大永元年(1521年)には駿河の今川氏親が甲斐へ派遣した福島正成率いる15,000の軍勢を相手に戦いました。
このとき高松は武田軍3,000の先陣を切って決死の戦いに臨み、今川軍の5分の1の兵力で敵を撃退したことから、その後信虎から最高殊勲者として感状と新領地を与えられます。
天文10年(1541年)に信虎が武田晴信(信玄)に追放されると、以後は信玄に仕えて天文16年(1547年)の志賀城攻めに参加し、城の後方へ回り込み城の水手を絶つ攻略に貢献します。
また、小田井原合戦では関東管領・上杉憲政が派遣した金井秀景率いる上杉軍3,000を浅間山麓で板垣信方、甘利虎泰と共に撃破するなど、信濃侵攻で大いに活躍しました。
戸石崩れ
天文17年(1548年)、村上義清との上田原の戦いで板垣信方、甘利虎泰ら名将を失った信玄は劣勢を挽回するため、村上家の拠点・戸石城を包囲し、高松も包囲軍として参加しました。
しかし難攻不落の城の攻略に手を焼いた武田軍はやむなく退却し、そこで村上義清率いる村上軍が戸石城の守備軍と挟撃を仕掛けてきたため、武田軍は大混乱に陥りました。
高松は混乱する兵たちを殿軍として支えて村上軍に立ち向かい戦死し、信玄は高松の死を嘆いて、後に近習の者に「武篇者になろうとするなら、原美濃(虎胤)、横田備中(高松)のようになれ」と言ったといわれています。
子孫
横田家は高松没後、原虎胤の長男・康景(綱松)が高松の婿養子となって跡を継ぎましたが、康景は長篠の戦いで戦死しました。
康景の子・横田尹松は徳川家康の家臣となり、江戸時代には旗本5,000石を領し、尹松の玄孫・横田準松(のりとし)の代に9,500石に加増され、旗本最高位となりました。