1527年~1578年(享年52歳)
高坂 昌信(こうさか まさのぶ)は、甲斐武田家に仕えた武将です。

武田四天王、武田二十四将に数えられる名将で、撤退戦の指揮に優れていたことから戦国の三弾正・真田幸隆の「攻め弾正」、保科正俊の「槍弾正」と並び「逃げ弾正」と称されました。

高坂昌信の生まれ

昌信は大永7年(1527年)、百姓・春日大隅の子として生まれ、当初は春日虎綱という名でした。

天文11年(1542年)に父が亡くなり身寄りがいなくなると、武田信玄に奥近習として召し抱えられ、はじめは使番(戦場の伝令・監察役)として働きました。一説には、昌信は美男子であったため信玄に気に入られて仕えることになったといわれています。

信玄時代

信玄の側近として英才教育を施された昌信は、天文21年(1552年)に100騎持を預る足軽大将となり、翌年には信濃佐久郡小諸城(長野県小諸市)の城代となりました。

また、この頃に信濃国人・香坂宗重の養子となり香坂姓となりましたが、後に宗重は上杉方に内通したとして処刑されます。

昌信が「高坂」または「香坂」姓を用いたのは弘治2年(1556年)~永禄9年(1566年)の11年間で、その後は春日虎綱に名を戻しています。また、昌信という名は出家した際の名前で、「まさのぶ」ではなく「しょうしん」と読む説もあります。

弘治2年(1556年)には武田・上杉の争いの最前線である海津城代に就任し、永禄4年(1561年)には海津城に上杉謙信が侵攻してきましたが、昌信は海津城に籠城して城を守りました。

同年の第四次川中島の戦いで、昌信は妻女山攻撃の別働隊として戦功を挙げ、戦いが沈静化した後も海津城で北信濃の治世に当たりました。

勝頼時代

天正3年(1575年)の長篠の戦いでは海津城の守備として留守役を任され、嫡男・昌澄が戦死しましたが、昌信は武田四天王の内で唯一生き残りました。

昌信は敗報を聞くと信濃駒場で勝頼を出迎え、敗戦の責任として戦いに消極的だった穴山信君武田信豊を切腹させるよう申し立てたといわれていますが、勝頼にその意見は容れられませんでした。

天正6年(1578年)に上杉謙信が亡くなると、跡目を巡って越後で御館の乱が起こり、上杉景勝が武田家との同盟を提案してくると、昌信は武田信豊と共に甲越同盟の交渉役となりましたが、その最中に海津城で亡くなりました。

子孫

昌信の長男・昌澄は長篠で討死したため、跡目は次男・高坂昌元(春日信達)が跡を継ぎました。

天正10年(1582年)の武田家滅亡後、昌元は上杉景勝に属しましたが、その後武田遺臣の真田昌幸北条氏直らと内通したことが発覚し、景勝によって誅殺されたため、昌信の嫡流は断絶しました。

逸話

信玄のラブレター

戦国時代、同性愛は普通のことで、むしろ男性が女性に惚れ込むのは軟弱で恥ずかしいこと、男性に愛情を注ぐのは硬派で真面目という価値観があったといいます。

武田信玄も源助という相手から弥七郎との浮気を詰問された際に書状を書いており、源助というのが高坂昌信なのではないかという説があります。

信玄の書状には

  • 弥七郎に度々言い寄ったが、虫気(腹の病)ということで相手にされていない。これは嘘ではない。
  • 弥七郎を伽(寝床)に寝させたことはない。以前にもそのようなことはない。昼夜、弥七郎と行為に及んだことはないし、今夜もそうである。
  • 源助とは特別に仲良くしたい。色々と努力はしたが、かえって疑われしまい、困惑している。この気持ちが偽りだというなら、私はどんな新罰を受けても良い。
  • 本来なら熊野牛王宝印の判紙に誓詞を書くべきだが、役人の目がうるさいので白紙に書いた。信じられないなら、明日にでも正式な容姿に書き直そう。

といった源助へ浮気を弁明する内容が書かれており、更に源助の名には後付けで「春日」が付け足されました。そこから春日虎綱(高坂昌信)への手紙とされていますが、昌信が源助と名乗ったことはなく「源五郎」と名乗っていました。

そのため、後世の人間が信玄と昌信の関係を繋ぎ合わせるために「春日」姓を足したといわれており、昌信が信玄と同性愛であったかの確証はないといわれています。