1522年~1575年(享年54歳)
内藤 昌豊(ないとう まさとよ)は、甲斐武田家に仕えた武将です。
武田四天王の一人で、武略に長けていたことから武田信繁と共に武田の副将格として評されました。
内藤昌豊の生まれ
大永2年(1522年)、武田信虎の重臣・工藤虎豊の次男として生まれ、はじめは工藤 祐長(くどう すけなが)と名乗りました。
天文5年(1536年)、今川家の内紛である花倉の乱で今川嫡子・今川義元に敗れ、甲斐に逃れた今川家庶子・玄広恵探側の人々が信虎を頼って落ち延びて来ると、信虎は玄広恵探側の者全員に切腹を命じました。
しかしそれを虎豊が諌めると、虎豊は信虎の勘気に触れて誅殺されたといいます(信虎が駿河に侵攻しようとしたことを諌めて誅殺された説も)。
父の死により浪人となった正豊は、兄・工藤昌祐とともに諸国、特に関東地方の辺りを流浪していたといわれています。
武田家復帰
信虎が嫡男・武田晴信(信玄)に追放された後の天文15年(1546年)、信玄によって再び武田家に召し出された正豊は工藤家の旧領と家督を継ぐことを許され、亡父の一字を継いで「祐長」から「昌豊」に改名しました。
正豊は50騎持ちの侍大将に任命され、更に父・虎豊の罪を信玄から謝罪され、流浪した苦労を労う金子を与えられたといいます。
信玄時代
信玄に仕えた正豊は信濃平定戦に参加し、永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いでは本隊として上杉軍の背後を襲う妻女山別働隊の大将として活躍しました。
永禄5年(1562年)からの上野侵攻では国峰城(群馬県甘楽郡)攻略のため、夜半に軍勢を城下まで進め、突然松明や提灯を灯して鬨の声を上げさせて城主・小幡景純に武田の大軍が迫って来たと思い込ませる作戦で逃走させ、死傷者を出さず城を攻略したことから信玄から大いに賞賛されました。
永禄9年(1566年)に深志城(松本城、長野県松本市)、箕輪城(群馬県高崎市)が攻略された後、正豊は300騎持の大将に加増されて城代を任されます。
永禄11年(1568年)~元亀元年(1570年)の間にこれまでの軍功から断絶していた武田譜代の名門・甲斐内藤家の名跡を継ぐことを許されて「内藤」姓を名乗りました。
元亀3年(1572年)には信玄の西上作戦に参加し、三方ヶ原の戦いでは徳川家康の軍勢が押し迫ってきた所を山県昌景、小幡昌盛の諸隊と撃破して武田軍の勝利に貢献しました。
長篠の戦い
信玄没後、武田当主となった勝頼は天正3年(1575年)、織田信長率いる3万の軍勢が長篠に到着したと一報を受け、正豊ら武田重臣は撤退を提案しました。
しかし勝頼は決戦を望んだため、正豊も原昌胤・山県昌景らと左翼に配置され、織田軍本隊、もしくは本多忠勝と戦いましたが、武田の重臣や名将たちが次々に戦死し追い込まれると、勝頼は撤退を決めます。
正豊は馬場信春と共に勝頼を戦場から逃すため踏みとどまり、徳川家臣・朝比奈泰勝により討たれたとも、全身に矢の雨を受けて亡くなったともいわれます。
子孫
正豊没後、家督は内藤昌月(まさあき)が継ぎました(実子ではなく、保科正俊の三男で養子であるとも)。
昌月は、織田政権の関東管領・滝川一益に降りましたが、神流川の戦いで一益が撤退すると北条氏直に仕え、天正16年(1588年)に39歳で亡くなりました。
昌月の長男・直矩の家系は会津藩士として、次男・信矩の家系は彦根藩士として存続していきました。
また、昌豊の兄・工藤昌祐は上野・箕輪城番を務めて武田家滅亡後は徳川家康に仕え、徳川四奉行の一人として甲斐統治に貢献しました。
逸話
正豊は戦国武将としては珍しく温厚な性格で、個人の功名心でなく、全体を視野に入れた知略を用いて戦に臨む思慮深い人物だったといわれています。
昌豊は信玄の代表的な戦に全て参加し、常に武功を立てていましたが、信玄からは一度も感状をもらうことがありませんでした。
信玄は「修理亮(正豊)ほどの弓取りともなれば、常人を抜く働きがあってしかるべし」と評し、敢えて一通の感状も出さなかったといい、昌豊も「合戦は大将の軍配に従ってこそ勝利するもので、個人の手柄にこだわるなど小さなこと」と感状を貰っていないことを気にもかけなかったといい、信玄と昌豊の信頼関係が厚かったことを示しています。