1537年~1575年(享年38歳)
三枝 昌貞(さいぐさ まささだ)は、甲斐武田家に仕えた武将です。

武田二十四将の一人で、諱は「守友(もりとも)」とも呼ばれてきましたが、現在は「昌貞」が正式な諱とされています。

生まれ

昌貞は天文6年(1537年)、甲斐武田家信・三枝虎吉の嫡子として生まれました。

父・虎吉は現在の山梨県中央市木原に本領を有し、昌貞は武田信玄の近習として仕えた後に足軽大将まで出世し、永禄12年(1569年)からは甲斐塩後郷(山梨県甲州市塩山)で代官に任じられ、以降は武田奉行衆として御料所の代官を務めました。

信玄時代

永禄11年(1568年)から信玄によって駿河侵攻が始まると、父・虎吉は駿河田中城の城将を務めましたが、昌貞は花沢城(静岡県焼津市)攻めで一番槍の武功を挙げて信玄から感状を受け、山県昌景から名刀「吉光」を与えられたといいます。

永禄8年(1565年)には信玄が嫡男・義信が謀反を起こしたとして廃嫡する事件が起こりましたが、昌貞は長坂昌国、矢島義房らと起請文を提出して信玄への忠誠を示し、その後義信は廃嫡されて信玄の庶子・勝頼が武田家の後継者となりました。

勝頼時代

天正3年(1575年)の長篠の戦いで、昌貞は信玄の異母弟・河窪信実の指揮下で長篠城を監視する別働隊として参戦し、酒井忠次が率いる織田・徳川の奇襲隊と戦いました。

昌貞の守備隊は劣勢でありながらよく戦いましたが、次第に劣勢に立たされて実弟の源左衛門守義、甚太郎守光らと共に戦死しました。昌貞が討たれた鳶ノ巣山の姥が懐(愛知県新城市乗本字東畑)には、三枝兄弟の墓碑が建てられています。

昌貞没後、昌貞の嫡男・守吉は幼少だったため、守吉の叔父に当たる昌吉が名代を務めましたが、武田家滅亡後は徳川家に臣従しました。守吉は分家を起して元禄11年(1698年)に近江国に移封し、徳川家の旗本となりましたが、守吉系の子孫は明治期に断絶しました。