1532年~1557年(享年26歳)
大内 義長(おおうち よしなが)は、周防・長門国の戦国大名です。周防大内家最後の当主であり、兄は豊後の大名・大友宗麟です。
大内義長の生まれ
義長は天文元年(1532年)、豊後(大分)の大名・大友義鑑の次男として生まれました。
天文12年(1543年)、周防大内家と出雲尼子家の間に起こった月山富田城の戦いで、大内義隆の跡目であった大内晴持が死去しました。
義鑑は義隆の姉婿であったため、跡目を失った義隆は義長を猶子として大内家に入れました。
しかし、天文14年(1545年)に義隆に実子の大内義尊が誕生したため、晴英は縁組関係を解消され、帰国することになりました。
大寧寺の変
天文20年(1551年)、義隆への謀反を企てていた陶晴賢(隆房)は、晴英を大内家の新当主に擁立しようと考えます。
義長の兄・大友義鎮(宗麟)は晴賢が義長を傀儡として擁立しようとしていることを見抜いて、義長が新当主となることを反対しましたが、義長自身が当主の座を望んだため、義鎮もやむなく認めました。
晴賢は義隆を大寧寺に追い込んで自害させ、義隆の嫡子・義尊も捕らえて殺害します。天文21年(1552年)、義長は大内家の新当主となり、晴賢は義長を君主として仕えましたが、実際に実権を握ったのは義鎮の予想通り晴賢でした。
防長経略
弘治元年(1555年)、厳島の戦いで毛利元就と戦った陶晴賢が敗死すると、大内家は急速に衰退していきました。
弘治3年(1557年)、元就は山口へ侵攻し、大内家の居城・高嶺城を攻めます。義長も抗戦したものの、最終的に城を捨てて重臣・内藤隆世のいた長門且山城へ逃亡しました。
しかし、やがて且山城も毛利軍に包囲されたため、隆世は義長の助命を条件に開城して自刃しました。その後、義長は功山寺(山口県下関市)に幽閉された後、毛利軍に包囲され、自刃を強要されて亡くなりました。
義長没後、大内義興の弟である大内輝弘が大内家を再興しようとしましたが毛利勢に討ち取られて亡くなり、大内家が治めていた周防・長門国は毛利領となりました。