1542年?~1618年
京極 マリアは、浅井久政の娘で、京極高吉の妻です。京極家に嫁いだ後に洗礼を受けてキリシタンとなり、マリアの洗礼名を授かりました。
京極マリアの生まれ
京極マリアは天文11年(1542年)頃、北近江(滋賀)の大名・浅井久政の次女として生まれました。「マリア」はキリストに改宗したときの名前で、本名は明らかにされていません。
京極高吉に嫁いでから永禄6年(1563年)に小谷城で高次、元亀3年(1572年)に高知、その後に竜子、2人の娘(氏家行広室、朽木宣綱室・マグダレナ)を生みました。
キリスト入信
高吉は天正元年(1573年)以前に嫡男・高次を織田信長に人質として送り上平寺に隠居したため、マリアもそこで共に暮らしたと考えられています。
天正9年(1581年)、夫・高吉と共に安土城で神父の洗礼を受けてドンナ・マリアの洗礼名を授かりましたが、その数日後に高吉は死去しました。
豊臣政権下
天正15年(1587年)、豊臣秀吉によりバテレン追放令が出された後もマリアはキリスト信仰を貫き、秀吉の側室となった竜子を除く4人の子も洗礼を受けたとされています。
その後は次男・高知が領した丹後国泉源寺村(京都府舞鶴市)に移り住み、京や大坂での布教活動を続けました。
また、泉源寺村は若狭との国境に近いことから長男・高次が領する若狭の小浜にも足を運んだともいわれます。マリアは地元では「泉源寺様」と呼び慕われ、元和4年(1618年)に死去しました。