三つ鱗

三つ鱗
1487年~1541年(享年55歳)
北条 氏綱(ほうじょう うじつな)は、相模の戦国大名で、北条家の関東支配の地盤を築いた人物です。

父・北条早雲の跡を継ぎ、武蔵、下総、駿河の関東領域に勢力を拡大させていきました。




北条氏綱の生まれ

氏綱は長享元年(1487年)、相模国(神奈川)の大名・北条早雲の嫡男として生まれました。

永正9年(1512年)頃から早雲が駿河郡の土豪・大森氏から奪取した小田原城に在所し、永正15年(1518年)に父が隠居したことから北条家の2代当主となりました。

関東支配

氏綱は大永3年(1523年)までに武蔵国西部・南部の国人を北条家に従属させ、勢力を拡大させていきました。

大永4年(1524年)には武蔵の大名・扇谷上杉朝興と氏綱の間で高輪原の戦いが起こりましたが、氏綱は敵方の城を次々に攻略し、更に朝興の配下を寝返らせて降伏させました。

大永5年(1525年)、不利に立たされた朝興は、鎌倉の大名・山内上杉家と連携して武蔵国の諸城を奪い返し、相模国まで侵攻してきます。

更に上総国の真里谷武田家、安房国の里見家などもこの機に乗じて相模国を包囲したため、氏綱は窮地に立たされました。

しかし、天文2年(1533年)に里見家の間で内紛が起こると相模国の包囲をやめ、その後天文6年(1537年)に朝興が死去すると、氏綱は武蔵国まで攻め込み、扇谷上杉家の本拠・河越城を陥落させ、諸国の包囲を解きました。

駿相同盟

北条家は父・早雲の代より駿河の今川家と主従関係にありました。天文4年(1535年)には駿相同盟に基づいて今川氏輝から出兵の要請があり、甲斐東部・都留郡に出陣し、氏綱は武田信虎の弟・信友を討ち取る大功をあげます。

しかし氏輝の死後、その跡を継いだ今川義元が信虎の娘・定恵院を娶って甲駿同盟を結んだため、相駿同盟が破綻しました。

その後今川家と北条家が争う河東の乱が起こり、北条家は河東地方へ侵攻して領土を占領し、今川家との主従関係を解消して独立勢力となりました。

鶴岡八幡宮の造営・氏綱の最期

鶴岡八幡宮
北条家は伊豆に侵攻して領国化を始めたことから、山内・扇谷両上杉氏など関東の在地勢力から「他国の逆徒」と呼ばれていました。

北条家は、関東領国化の正当性を主張するため、鶴岡八幡宮の造営を始めます。八幡宮は大永6年(1526年)に一度戦火で焼失しており、氏綱はその修繕、造営を行いました。

武門の守護神である鶴岡八幡宮を再建する一大事業は、執権北条氏や鎌倉公方に継ぐ関東の武家勢力であることを示す意味がありました。

天文9年(1540年)に正殿が完成した際には、北条家一門で落慶式が行われました。鶴岡八幡宮の落慶式を終え、念願叶った氏綱は翌年に病に倒れ、その生涯を閉じました。




北条氏綱の逸話

勝って兜の緒を締めよ

兜
「勝って兜の緒を締めよ」とは、「勝利しても油断してはならない」ということわざとして有名ですが、これは氏綱が病に倒れた後、跡目である北条氏康に遺した言葉で、氏綱が記した「五か条の訓戒」の中に残されています。

一、手際なる合戦にて夥敷勝利を得て後、驕の心出来し、敵を侮り、或は不行義なる事、必ある事也。可慎。散々如斯候而、滅亡の家、古より多し。此心、万事にわたるそ。勝て甲の緒をしめよ、といふ事忘れ給ふへからす。

【意味】「戦で勝利すると驕りの心が出て、敵を侮るようになる、あるいは油断する。これを慎むべし。散々それらのことで滅亡した家は古より多くある。これは、戦だけでなく万事に共通することでもある。戦では勝っても兜の緒を緩めず、締めることを忘れてはいけない」

氏綱と鰹(かつお)

小田原北条家に関する内容を集めた「北条五代記」には、氏綱と鰹にまつわる逸話が記されています。

天文6(1537)年、氏綱が乗っていた船に鰹が飛び込み、それを見た氏綱は「勝負に勝つ魚(うお)」だと縁起が良いとして喜んだそうです。鰹を見た後に参戦した合戦に氏綱は勝利したことから、氏綱は戦いの前には吉例として鰹を食べていたといいます。

鰹が縁起物として有名になったのは江戸時代の頃からですが、氏綱は江戸より前に鰹を縁起物として食べていたということになります。

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