1491年~1561年(享年71歳)
小畠 虎盛(おばた とらもり)は、甲斐武田家に仕えた武将です。
武田の五名臣、武田二十四将の一人で、生涯36回の合戦に参加して36枚の感状を受け、41の傷を受けたといわれる歴戦の勇将でした。
小畠虎盛の生まれ
虎盛は 文明13年(1491年)、武田家の足軽大将・小畠日浄の子として生まれました。
父・日浄は遠江国勝間田の出身でしたが、明応9年(1500年)に虎盛を連れて甲斐守護・武田信虎に仕官します。
1504年(永正元年)に日浄が今井信是の叛乱鎮圧で討ち死にすると、虎盛が14歳で家督を継ぎました。
生涯
父の後を継いで足軽対象となった虎盛は甲斐国統一戦や今川、北条家との戦いで活躍し、大永元年(1521年)に今川配下の福島正成が甲斐に侵攻した際は、原虎胤と先鋒隊として最前線で戦ったといわれます。
その功績から信虎「虎」の一字を貰って虎盛と名乗るようになり、更にその武勇から「鬼虎」と称されました。
1541年(天文10年)に信虎が武田信晴(信玄)によって追放されると、以後虎盛は信玄に仕えて戦い、信玄が出家した際には原虎胤や真田幸隆らと共に剃髪して「日意」と号しました。
その後、虎盛は高坂昌信(春日虎綱)の副将として海津城(長野市松代町)に在番して対上杉家の抑えとして活躍しましたが、子の小幡昌盛に遺言として「よく身の程を知れ」と言葉を遺し、永禄4年(1561年)に病没しました。
小幡昌盛(おばた まさもり)
1534年~1582年(享年49歳)
昌盛は天文3年(1534年)に生まれ、永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦い直前に虎盛が亡くなると、家督を継いだ昌盛は姓を「小幡」と改め、引き続き海津城の守備を任せられました。
昌盛は信玄の計らいで足軽大将・原虎胤の娘を正に迎えた後、海津城副将の地位に推薦されますが、信玄の旗本で仕えたいと望んでこれを断りました。
それによって昌盛は信玄の怒りを買い、甲府妙音寺に蟄居、切腹を命じられましたが、諏訪勝頼や土屋昌続の懇願によって許され、、足軽大将に留まりました。
天正10年(1582年)の甲州征伐で昌盛は病床のため参加できず、勝頼に甲斐善光寺で暇乞いをした後に病没しました。死因は甲府盆地において発生していた地方病・住血吸虫症(感染症)といわれています。