1538年~1618年(享年81歳)
鍋島 直茂(なべしま なおしげ)は、肥後国の大名・龍造寺隆信に仕えた武将です。龍造寺家の重臣として重用されましたが、その後秀吉による九州征伐で活躍し、鍋島家の権力を確立させていきました。




鍋島直茂の家紋

鍋島直茂の家紋は鍋島杏葉です。鍋島家の家紋は剣花菱ですが、今山の戦いで直茂が豊後大友家に勝利した後、記念として大友家が使用していた杏葉紋に家紋を替えました。

鍋島直茂の生まれ

直茂は天文7年(1538年)、肥後国(佐賀)の豪族・鍋島清房の次男として生まれました。幼名は彦法師といい、主君・龍造寺家兼の命令によって小城郡城主・千葉胤連の養子となりました。その後、直茂は実父・清房は直茂の養子縁組を解消して鍋島家に戻らせます。

家兼の死後、龍造寺隆信が龍造寺家の家督を継ぎ、隆信の生母である慶誾尼が父・清房の継室となります。直茂の生母と隆信の父は兄妹関係でもあることから、直茂は隆信の重臣として重用されました。

今山の戦い

元亀元年(1570年)、豊後大名・大友宗麟が侵攻してくると龍造寺軍は隆信の居城・佐嘉城に籠城しましたが、直茂が大友軍本陣への夜襲を進言します。直茂が夜襲隊を率いて大友軍の本陣に突入すると、大友方は大混乱になり、直茂の率いる奇襲隊によって壊滅されました。

この戦いに勝利したことで、鍋島家の家名は上がり、その後隆信が隠居すると、家督を継いだ隆信の嫡男・龍造寺政家の後見を任されるなど、龍造寺家臣団の重臣として活躍していきます。

沖田畷の戦い

天正12年(1584年)、薩摩国・島津家との戦いで隆信が島津家久の釣り野伏にかかって戦死すると、直茂も隆信の後を追って自刃しようとします。しかし、家臣たちに止められて龍造寺政家を支え、勢力挽回に務めます。

戦後、龍造寺家は島津家に恭順する形になりましたが、直茂はその間に豊臣秀吉と誼を通じて九州征伐を促します。

天正14年(1586年)、秀吉によって征伐軍が派遣されると直茂は島津家と手を切り、九州征伐軍に加わりました。九州平定後、龍造寺政家の本領は安堵され、直茂も秀吉から所領を与えられました。

また、秀吉は直茂を高く評価して、今後は政家に代わって直茂が国政を担うよう命じます。そのため、肥前国に関する国政の実権は、直茂が掌握することになりました。

朝鮮出兵

文禄元年(1592年)の朝鮮出兵で、直茂は加藤清正の与力として龍造寺家臣団を率いて参加しました。直茂の朝鮮出兵での活躍で、家臣団らも直茂に恭順する意思が決定的になります。

結果、直茂と政家の関係は不和になったともいわれ、文禄4年(1596年)には直茂が政家を毒殺しようとしている噂が流れ、直茂は噂を否定する起請文を提出しています。

関ヶ原の戦い

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは息子の勝茂が西軍に付くことを進言したものの、直茂は東軍勝利を予測して穀物を買い占め、それを徳川軍に献上しました。

更に関ヶ原本戦前に西軍として出陣していた勝茂を戦線から離脱させ、徳川家康への恭順を示すため謝罪文を送ります。家康は本戦後、九州の西軍諸将の居城を攻める役目を命じられ、小早川秀包の久留米城を攻略し、立花宗茂の柳川城を開城させました。

この戦果により、肥後国35万7,000石は安堵されます。




江戸時代

戦後、龍造寺政家が隠居すると子の龍造寺高房は江戸表に留め置かれ、事実上の人質扱いとなっていました。高房は佐賀藩における龍造寺家の実権回復を求めましたが、幕府は直茂・勝茂父子が国主であるとして認めませんでした。

慶長12年(1607年)、直茂を恨んだ高房は正室・瑞光院(直茂の養女)を殺害し、自らは切腹を図りましたが一命を取り留めます。

この報せを受けた直茂は高房に対して「おうらみ状」と呼ばれる書状を送り、「自分たちは殿下(秀吉)や大御所様(家康)に国政を任されたが、龍造寺家にも最大限敬意を払ってきた。また待遇面でも不自由のないよう取りはからってきたのに、名字(家系)を断絶させるような真似(切腹)をしたのは何故か。我々親子(直茂・勝茂)に質問するなら直接申し開きをする」と高房の行動を非難しました。

しかし高房は佐賀には帰らず、再度自殺を図って死去します。高房の死を受けて落胆した政家も翌月に亡くなりました。

直茂の晩年

幕府は龍造寺家の家督相続について龍造寺隆信の弟・信周、長信らに意見を尋ねましたが、彼らは直茂の功績を称え、直茂が佐賀藩を相続するのが相応しいと推挙します。しかし、直茂は龍造寺家への配慮から自身の老齢を理由に辞退し、息子の勝茂に初代藩主の座を譲りました。

その後、元和4年(1618年)に直茂は死去しました。81歳と長命でしたが、晩年は耳にできた腫瘍の激痛で苦しんだ上の死去であったため、直茂を恨んだ龍造寺高房の祟りではないかと噂されたともいわれ、これが「鍋島化け猫騒動」という怪談として後世に伝わっていきました。

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