織田木瓜

織田木瓜
1547年~1622年(享年75歳)
織田 長益(おだ ながます)は、織田信長の弟です。織田家では甥の信忠に仕えましたが、江戸時代に千利休に茶道を学び、自ら茶道有楽流を創始しました。




織田長益の生まれ

長益は天文16年(1547年)に尾張国(愛知)の大名・織田信秀の十一男として生まれました。

織田信長の弟であり、天正2年(1574年)に尾張国知多郡を与えられて以降は、信長の嫡男・織田信忠の補佐を務めました。

本能寺の変

天正10年(1582年)の本能寺の変の際、長益は信忠と共に二条御所にいましたが、長益は京都から脱出して岐阜へ逃れました。その後は信長の次男・織田信雄に仕えて小牧・長久手の戦い、蟹江城合戦などに参加しました。

天正18年(1590年)に信雄が改易されると豊臣秀吉の御伽衆となり、摂津国島下郡味舌(大阪府摂津市)2,000石を領します。また、この頃に出家して「有楽斎」と号しました。

関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦いで有楽斎は東軍に属し、石田三成の家臣・蒲生頼郷を討ち取る戦功を挙げました。また長男・長孝が戸田重政、内記親子の首を取り、その功で有楽斎は大和国内で3万2000石、長孝は美濃野村に1万石を徳川家康から与えられました。

戦後、有楽斎は豊臣秀頼を補佐して家康との仲介を務め、大坂冬の陣では豊臣家の中心人物の一人として大坂城にいました。冬の陣後も豊臣穏健派として豊臣、徳川の和平に務めましたが、夏の陣に向けて再戦の機運が高まったため「もはや城内にいても無意味」と家康・秀忠の許可を得て豊臣家を離れます。

江戸時代

その後、有楽斎は京都に隠棲し、正伝院(京都市東山区)に建てた茶室・如庵で茶を点てたり、茶碗を製作するなど茶人として生活しました。そして千利休から茶道を習い、利休の高弟の一人となって茶道有楽流を創始します。

また、四男・長政と五男・尚長は有楽斎の大和国内3万石を分割して1万石ずつ与えられ、長政が戒重藩(奈良県桜井市)、尚長が柳本藩(奈良県天理市)の藩祖となりました。

元和7年(1622年)に有楽斎は京都で死去しました。庶長子の長孝は野村藩主となって幕府から分家を認められ、嫡子の頼長は関ヶ原の戦い後も豊臣秀頼に仕え、父の茶道有楽流を引き継ぎました。