1572年~?
甲斐姫(かいひめ)は、北条家臣・成田氏長の娘です。「東国無双の美人」と評される女性でしたが、武芸や軍事にも通じていました。
成田家の居城・忍城の戦いでは自ら出陣し、多くの敵を討ち取ったといわれています。
甲斐姫の生まれ
甲斐姫は元亀3年(1572年)、武蔵国(埼玉)忍城城主・成田氏長と上野国金山城城主・由良成繁の娘との間に生まれました。
両親は成田家と由良家の関係が悪化した際に離縁しており、甲斐姫は2歳で母と離別しています。その後、父の継室である太田資正の娘に継母として育てられました。
忍城の戦い
天正18年(1590年)、豊臣秀吉によって小田原征伐が行われると、石田三成率いる軍が忍城まで攻め込んできました。豊臣軍は城の周辺に堤防を築いて、荒川と利根川から引き入れた水を堤内に入れ、水攻めを行いました。
しかし、籠城戦の途中で堤防が決壊すると、流れ出した水が豊臣軍を押し流し、300人近くが溺死しました。堤防が決壊した原因は、成田軍が堤防を破壊した説、当時梅雨の時期であったため、堤防が激しい風雨の影響で決壊した説などがあります。
その後、豊臣政権の五奉行筆頭・浅野長政が援軍に駆けつけ、忍城の本丸に向けて進撃してきました。氏長はこれを迎え撃とうとしましたが、大将が出陣するときではないと甲斐姫が押し留めたといいます。
甲斐姫は鎧をまとい、成田家の名刀「浪切」を携えると、200騎の兵と共に出陣して多くの敵将を討ち取り、また家臣の正木利英も援軍として戦ったため、成田軍は忍城本丸への侵入を阻止しました。
北条家滅亡後
小田原征伐で北条家が豊臣家に降伏すると、小田原城は開城されました。その後も忍城は籠城を続けていましたが、小田原開城の報せを受けると、忍城も開城され、甲斐姫ら城に籠もっていた女性陣は、甲冑を身に着けたまま城を後にした
と伝えられています。
その後、成田家は豊臣家臣・蒲生氏郷に仕えました。甲斐姫の優れた容姿と武勇を伝え聞いた秀吉は、甲斐姫を側室とし、大坂城へ住まわせます。
大坂城での甲斐姫の生活は詳細不明ですが、豊臣秀頼の養育係や武勇を活かして隠密となった説などがあります。
また、慶長3年(1598年)に行われた醍醐の花見で甲斐姫が詠んだとされる和歌が発見されたことから、甲斐姫は秀吉が亡くなる直前まで側にいたとも考えられています。
秀吉没後、甲斐姫の消息が分かる史料は残っておらず没年は不明ですが、秀頼の子の養育係を務めたのではないかといわれています。
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