足利二引両

早川殿
?~1613年
早川殿(はやかわどの)は、駿河国の大名・今川氏真の正室です。

相模国の大名・北条氏康の娘であり、武田・北条・今川家の間で甲相駿三国同盟が結ばれた際に氏真と婚姻しました。




甲相駿三国同盟

早川殿の実家・相模北条家と駿河今川家は、北条早雲の姉・北川殿と今川義忠が婚姻していたこともあり、元々縁戚関係でした。

しかし、天文6年(1537年)に今川義元が北条家と敵対していた甲斐国・武田家と同盟を結んだため、北条家は今川家の領土まで侵攻し、河東の乱が起こりました。

乱後、武田・北条・今川家は和睦を決定し、甲相駿三国同盟が結ばれます。その際に早川殿は同盟として今川氏真に17歳で嫁ぎました。

駿河侵攻

永禄11年(1568年)、武田信玄が駿河へ侵攻してくると、早川殿は敗北した氏真と共に遠江国・掛川城まで徒歩で逃げ延びました。

それに怒った北条氏康は武田家との同盟を破棄し、越後の上杉謙信と同盟を結びます。その後、謙信は今川家の支援のため、駿河へ出兵しました。

翌年、武田家と同時に遠江へ侵攻していた徳川家康は、氏真と早川殿が籠城する掛川城を包囲しましたが、その後今川・北条・徳川は和睦し、氏真と早川殿は北条家に引き取られました。

小田原・駿府での生活

元亀元年(1570年)、氏真と早川殿は小田原近郊にある早川郷(神奈川県小田原市)へ移り住み、長男・今川範以(いまがわ のりもち)が生まれました。

元亀2年(1571年)、父・氏康の死後、氏真と早川殿は徳川家の庇護下に入り、早川を出て駿府で暮らしました。天正4年(1576年)には次男・品川高久と三男・西尾安信が生まれ、翌年には四男・澄存(ちょうぞん)が生まれました。

北条家滅亡後

天正18年(1590年)、羽柴秀吉による小田原征伐で北条家が滅亡すると、氏真・早川殿は京都に移り住みました。慶長12年(1607年)に長男・範以が亡くなり、慶長3年(1598年)には次男・高久が徳川秀忠に仕えました。

慶長17年(1612年)に氏真と早川殿は京都から江戸・品川へ移り住みましたが、翌年早川殿は江戸で死去しました。

更に翌年には夫の氏真も江戸で亡くなり、早川殿の墓と共に観泉寺(東京都杉並区今川)で弔われています。

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