1538年~1615年(享年77歳)
今川 氏真(いまがわ うじざね)は、駿河、遠江を治めた今川家の2代当主です。
桶狭間の戦い後は北条家、徳川家の庇護を受けて妻の早川殿と江戸で暮らしました。
今川氏真の生まれ
氏真は天文7年(1538年)、駿河国(静岡)大名・今川義元と武田信虎の娘・定恵院の嫡子として生まれました。
天文23年(1554年)には北条氏康の長女・早川殿と婚姻して甲相駿三国同盟が結ばれ、永禄元年(1558年)頃に義元から家督を継いで今川家2代当主となりました。
桶狭間の戦い
永禄3年(1560年)、織田信長の奇襲を受けた義元と重臣らが尾張で死去すると、今川家の統治に不満を持っていた国人領主が次々に離反していきました。
今川家が占拠していた西三河の国人は松平元康(徳川家康)の勢力下に入り、東三河でも松平方につく国人と今川方に残る国人に二分されて対立が起こります。
更に遠江でも国人らの離反が相次ぎ、氏真は徳政の実施や役の免除、楽市などを行って国人の離反を防ごうとしました。
武田家との対立
永禄8年(1565年)、氏真の妹・嶺松院と婚姻していた武田信玄の嫡男・武田義信が廃嫡される事件が起こり、嶺松院は今川家に戻り、甲駿同盟が解消されました。
更に、義信の代わりに武田家の後継者となった武田勝頼が信長の養女・龍勝院を正室に迎えたため、氏真は舅の北条氏康と共に甲斐への塩止めを行いました。しかし、信玄は信長や家康と同盟を結んでいたため、塩断ちの苦境に立たされても今川家に対抗できました。
駿河侵攻
永禄11年(1568年)、信玄は駿河へ侵攻し、氏真も武田軍を迎え撃つため出陣しましたが、駿河の国人らが信玄方に付いたため、今川軍は敗走して駿河は武田軍に占領されました。
氏真は掛川城(静岡県掛川市)まで逃れたものの、その後家康によって城が包囲されて半年間の籠城戦となりましたが、翌年家康が氏真に和睦交渉すると、氏真は家臣の助命を引き換えに家康と和睦しました。
和睦条件として今川家は駿河の支配権を失ったため、戦国大名としての今川家は滅亡しました。
今川家滅亡後
掛川城の開城後、氏真は妻の実家である北条家の庇護下で暮らしました。北条家は武田家と敵対関係にありましたが、元亀2年(1571年)に北条氏康が没すると、北条氏政が北条家当主となり、武田家と和睦しました。
その際、氏真は相模を離れて家康の庇護下に入ります。家康にとって、駿河の旧国主である氏真を保護することは、家康が駿河を治める大義名分となりました。
家康の庇護下で氏真は長篠の合戦に参加したり、公家などの文化人と交流し、和歌・連歌の会などに参加します。その後京都に移り住みましたが、家康から江戸に屋敷が与えられると江戸に居住しました。
慶長18年(1613年)に妻の早川殿と死別すると、翌年氏真も江戸で亡くなりました。氏真の墓は宝珠山観泉寺(東京都杉並区今川)に早川殿の墓と並んでいます。
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