三つ鱗
北条早雲公像
北条早雲公像(神奈川県小田原市)

1432年?~1519年(享年88歳?)
北条早雲(ほうじょう そううん)は、関東一帯を制した北条家の初代当主です。

百年続いた北条家五代の祖であり、相模国を平定し、北条家が関東で勢力を広げる基礎を築いた人物です。




北条早雲の家紋

対い蝶
北条家の家紋といえば「三つ鱗」と呼ばれる龍の鱗を模したものですが、早雲の血族である伊勢家は向蝶(むかいちょう)の家紋を使っていました。

蝶の家紋は主に平家一族が使っていた家紋であり、伊勢家は平維衡(たいらの これひら)の血を引く氏族です。

蝶は何度も姿を変えて成長していくことから、不滅を表す生き物として武家に愛されていました。

北条早雲の生まれ

早雲は永享4年(1432年)~康正2年(1456年)の間に生まれたとされています。父は備中国荏原荘(岡山県井原市)の武将・伊勢盛定で、母は京都伊勢氏当主・伊勢貞国の娘です。

早雲は自分を伊勢宗瑞(いせ そうずい)と名乗っており、早雲の子・氏綱の代から「北条」と正式に名乗るようになりました。

そのため、早雲自身は自分を「北条早雲」とは名乗っていませんが、一般的には伊勢宗瑞よりも北条早雲の名で知られています。

応仁の乱

応仁元年(1467年)に乱が起こると、駿河守護・今川義忠が上洛を目指して幕府の元を訪れます。その際に義忠は幕府申次衆である早雲の父・盛定の元を度々訪れていました。

申次衆は将軍に拝謁する取次、雑務をする仕事で、伊勢・上野・大舘・畠山の4家が申次衆の役職に就いていました。そして義忠と盛定の縁で、早雲の姉・北川殿が義忠と婚姻します。

文明5年(1473年)に北川殿は嫡男・龍王丸(今川氏親)を生んだものの、当時今川家では家督争いが続いており、父から家督を譲り受けていた早雲は、今川家の争いの仲介になり調停役を務めます。

結果、龍王丸が成人するまでは義忠の従兄弟・小鹿範満(おしか のりみつ)が家督代行となる形で和議を結ばせました。

しかし、文明11年(1479年)に龍王丸が15歳で元服を迎えても、範満は家督を龍王丸に戻そうとしませんでした。

そこで早雲は再び京都から駿河へ向かい、挙兵して範満のいる駿河館へ侵攻します。この戦いに敗北した範満は討ち死にし、龍王丸は今川家当主として正式に駿河館へ入りました。

伊豆討ち入り

龍王丸を補佐した功績で、早雲は伊豆の国境近くにある興国寺城(静岡県沼津市)と所領を与えられ、長享元年(1487年)には嫡男・北条氏綱も生まれました。

伊豆に入ると早雲は出家し、「早雲庵宗瑞」と法名を名乗りました。伊豆には京都から派遣された堀越公方・足利政知がいましたが、延徳3年(1491年)に政知が死去すると、政知の後継者を巡って争いが起こります。

早雲は足利家の内紛を知ると、今川氏親から兵を借り、堀越御所を急襲して政知の子・足利茶々丸を討ち取って伊豆を平定させました。以後も早雲と氏親は連携しながら、関東地方で領国を拡大させていきました。

相模攻め

小田原城
小田原城(神奈川県小田原市)

明応3年(1494年)、関東大名の山内上杉家と扇谷上杉家の争いをきっかけに、関東各地で領土争いが起こります。

早雲は明応4年(1495年)に相模国へ侵攻し、小田原城主・大森藤頼を討って小田原城を手に入れました。小田原城奪取後、早雲は相模国で初めて検地を行うなど内政にも力を入れ、支配の強化を図りました。

その後も永正14年(1517年)頃まで関東各地の大名と転戦していた早雲ですが、翌年に嫡男・氏綱に家督を譲ると、永正16年(1519年)に享年64歳、または88歳で死去しました。

早雲の墓は箱根湯本の早雲寺にあり、早雲以下北条五代の墓もあります。




北条早雲の名言

名言①

少の隙あらば、物の文字のある物を懐中に入れ、常に人目を忍びて見るべし。

寝ても覚めても手なざれば、文字忘れる事あり。書くことも同じき事。

【意味】少しでも暇があれば、書物を懐に入れておき、人目を忍びながら読むと良い。

文字は寝ても覚めても読んでいなければ、すぐに忘れてしまう。文字を書くことも同じである。

名言②

上下万人に対し、一言半句にても虚言を申べからず。かりそめにも有のままたるべし。

そらごと言つくれば、くせになりてせらるるなり。人に頓て見限らるべし。人に糺され申ては一期の恥心得べきなり。

【意味】全ての人々に対して、嘘を言ってはならない。ありのままを報告することが大切で、

嘘を吐いていると癖になり、遂には人に信用されなくなる。都合の悪いことであろうと一生の恥と考えて、真実を言うことを心掛けるべきである。

名言③

よき友をもとめべきは手習学文の友なり。悪友をのぞくべきは碁将棋笛尺八の友なり。

是はしらずとも恥にはならず、ただいたづらに光陰を送らむよりはとなり、人の善悪みな友によるといふところなり。

三人行時、かならず我が師あり、その善者を撰びて是にしたがふ、其よからざる者をば是をあらたむべし。

【意味】良き友を求めるなら、手習いや学問の友が良い。悪友として除くべきは囲碁、将棋、笛、尺八に興ずる遊び友達である。

これらの遊びは知らなくても恥にならず、悪友とつるむということは、結局、時間を空しく過ごすのと変わらない。

人の善悪は友によるといっても過言ではなく、三人の人間がそろえば必ず手本となる人物がいる。善人を見習い、悪人には付き従わないこと。

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