三つ鱗

北条氏康
1515年~1571年(享年57歳)
北条 氏康(ほうじょう うじやす)は、小田原城を拠点に関東で勢力を拡大させた大名です。

上杉謙信、武田信玄、今川義元らと戦い、不敗の戦歴を持つ名将であることから「相模の獅子」と呼ばれました。




北条氏康の生まれ

三つ鱗
氏康は永正12年(1515年)、相模国(神奈川)の大名・北条氏綱の嫡男として生まれました。

享禄2年(1529年)の15歳頃に元服し、翌年に扇谷上杉家当主・上杉 朝興(うえすぎ ともおき)との間に起こった小沢原の戦いで初陣を迎えて勝利を収めました。

天文10年(1541年)に氏綱が死去すると、氏康は北条家の家督を継いで第3代当主となります。

河越夜戦

天文14年(1545年)、駿河の今川義元と関東管領・山内上杉憲政や扇谷上杉朝定らは8万の連合軍となって氏康に挙兵し、河越城に籠城した氏康軍は1万と劣勢な状況で、氏康はこれまで奪った領土を返還すると交渉を持ち掛け戦線を維持させます。

翌年、対陣が長期化していた隙を狙って、氏康軍は突如連合軍に夜襲を仕掛けました。

この奇襲で上杉憲政は下総国に逃げ延び、上杉朝定は討たれ、扇谷上杉氏は滅亡しました。

公事赦免令

天文18年(1549年)に関東で大地震が起こり、領国で農民が田畑を捨てて逃げ延びるなど、国中が大混乱に陥りました。

震災後、氏康は被災した伊豆から武蔵南部の領域に、公事赦免令という朱印状を発給し、減税や諸税の撤廃、賦役の免除などを取り決めました。

氏康が公事赦免令で細かな取り決めを行ったことで領内の法が統一化され、後の北条家による関東支配の一端につながっていきました。




小田原城の戦い

小田原城
永禄3年(1560年)、上杉謙信が関東へ侵攻し、北条方の諸城を次々と攻略しました。更に謙信は関東一円の大名や豪族にも動員を呼びかけたため、氏康は小田原城で籠城の構えを取りました。

大軍で小田原城を包囲した上杉連合軍でしたが、小田原城が堅牢であったことや、当時関東では永禄の飢饉と呼ばれる大飢饉が発生していたために長期戦は難しく、更に氏康と同盟していた武田信玄が信濃国川中島に海津城を完成させたため、謙信は関東から兵を引き上げました。

三増峠の戦い

永禄11年(1568年)から信玄が駿河侵攻を始めたため、武田・北条・今川が結んでいた甲相駿三国同盟が破棄されました。

北条家は娘婿の今川氏真(氏康の娘・早川殿の夫)を支援すると決めたため、北条家と武田家は対立することになりました。

永禄12年(1569年)に武田軍が武蔵国に侵攻してくると、氏康の息子である氏邦と氏照が小田原城の支城に籠城し、武田軍を撃退しました。

その後、武田軍は南下して小田原城を攻め込み包囲しましたが、氏康は籠城戦の構えを取ったため、既に兵力を消耗していた武田軍もすぐに撤兵しました。

氏康は撤退する武田軍を追撃させましたが、武田軍は荷駄を捨ててまで迅速に撤退したため追いつくことは叶いませんでした。

最期

三増峠の戦いの頃から氏康は体調を崩し、元亀元年(1570年)には中風とみられる病で小田原城で養生していました。

晩年の氏康は呂律が回らず、意思の疎通もままならない状態であったといわれます。翌年、氏康は小田原城で病没しました。




北条氏康の逸話

氏康の向疵(むこうきず)

氏康は内政だけでなく武勇にも優れた文武両道の士であり、生涯三十六度の戦いでは一度も敵に背中を見せたことがないといわれる猛将でした。

そのため、氏康の体についた戦いの傷は、全て体の前面についていたといいます。

河越夜戦では10倍の兵力を持つ今川軍を奇襲で打ち破り、その際には総大将の氏康自らが先頭に立ち戦ったといわれています。

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