抱き杏葉

抱き杏葉
1513年~1585年(享年73歳)
立花道雪(たちばな どうせつ)は、豊後国の大名・大友宗麟に仕えた武将です。

本人は立花姓を名乗ることはなく、戸次 鑑連(べっき あきつら)、または戸次 道雪(べっき どうせつ)と名乗っていました。

生涯、大友家の家臣として大戦37回、小戦百余回の戦いに出陣し、軍神と称されました。




立花道雪の家紋

抱き杏葉
道雪の家紋は抱き杏葉です。抱き杏葉の家紋は豊後大友家が使用していたもので、大友家の一族である道雪は同じ家紋を使用していました。

立花道雪の生まれ

道雪は永正10年(1513年)、豊後国(大分)の大名・大友家の一族である戸次親家の次男として生まれました。幼名は八幡丸(はちまんまる)で、長兄が早世していたため嫡男として育てられました。

大永6年(1526年)に父が死去すると、元服して家督を継ぎ、大友家に仕えました。

二階崩れの変

天文19年(1550年)、大友義鑑が嫡男・大友宗麟を廃嫡して三男の塩市丸を次期当主としようとしたことから、これに反対した家臣に義鑑が襲撃される家督争いが起こり、義鑑は襲撃で受けた傷が元で亡くなりました。

道雪は宗麟の廃嫡を画策した妻の父・入田親誠を討伐後、離縁して宗麟を支持し、宗麟が大友家21代当主となるよう尽力しました。




門司城(もじじょう)の戦い

永禄元年(1558年)、吉川元春小早川隆景率いる2万の毛利軍が大友領の豊前へ侵攻し、門司城を落城させました。

大友宗麟は門司城を奪還するため、道雪ら1万5千の兵を門司城へ派遣し、道雪は「参らせ戸次伯耆守」と朱記させた弓を毛利陣内に放ちます。

その矢に味方が次々と打ち抜かれていく様に毛利兵は次第に恐怖し、大友軍の挟み撃ちにあって総崩れとなった毛利軍は門司城から退却しました。

その後も毛利家との戦いは続きましたが、永禄7年(1564年)、13代将軍・足利義輝の仲介によって大友家と毛利家の戦いは休戦となります。

休松(やすみまつ)の戦い

永禄10年(1567年)、毛利家の援助を受けた筑前の大名・秋月種実が家名再興のため挙兵すると、この動きに乗じて大友家の重臣・高橋鑑種が謀反を起こしました。

宗麟は道雪らに2万の兵を与えて秋月、高橋軍の討伐を命じ、敵方の休松城を含む支城を攻めて次々と陥落させていきます。

しかし、この最中に毛利家の九州進出の気配があると知らせを受けると、大友傘下にあった豊前・筑前・筑後の国人衆は動揺して自領へ退却してしまいました。これを知った宗麟は道雪らに退却を命じます。

秋月種実は大友軍退却の情報を知ると、大友軍へ攻撃を仕掛けましたが、道雪は種実の夜襲を予見していたため伏兵を配置し、種実の軍を迎え撃って多くの敵を討ち取りました。

秋月勢はいったん撤退しましたが、翌日に再び臼杵鑑速、吉弘鑑理らの陣に夜襲を仕掛けたため、大友軍は混乱状態となります。

この夜襲を予見していた道雪は迅速に対処して臼杵・吉弘軍の撤退を指揮しましたが、大友軍は400名以上の将兵を失い、道雪も叔父・戸次親久、異母弟の戸次鑑方など多くの身内を失いました。

大友方が多数の将兵を失ったことによって家臣の離反も相次ぎ、大友方の重要拠点である立花山城主・立花鑑載が毛利家に寝返ると、道雪は立花山城奪還のため立花方の野田右衛門大夫を調略し、立花山城を陥落させ、鑑載は自害しました。




立花家当主

立花山城の奪還後、道雪は宗麟の命令で立花山城主となり、立花家の家名を継ぎます。

しかし立花家は大友家に謀反を起こした家名のため、宗麟は大友重臣である道雪に立花姓を名乗ることを許可せず、道雪は生涯戸次姓を使用しました。

天正3年(1575年)、道雪は宗麟の許しを得て一人娘の立花誾千代に立花家の家督を譲った後、天正9年(1581年)には高橋紹運(大友宗麟の宿老・吉弘鑑理の次子)の長男・立花宗茂を道養嗣子に迎えて立花家の家督を継がせました。

耳川の戦い

天正6年(1578年)から宗麟が九州南方の大名・島津家の討伐を画策すると道雪は反対しましたが、宗麟は日向へ侵攻します。しかし大友軍はこの戦いに大敗し、多くの有力武将を失いました。

この大敗を知ったとき、道雪は宗麟や重臣らを痛烈に批判したといわれています。大友家が衰退し始めると家臣の離反も相次ぎましたが、道雪は宗麟に尽くして、高橋紹運と共に島津家と戦いました。

龍造寺家との戦い

天正12年(1584年)、沖田畷の戦いで肥前の大名・龍造寺隆信が島津家久に討たれると、道雪は高橋紹運と筑後を守るべく70歳の体で出陣します。しかし、翌年柳川城攻めの最中に陣中で病となり、自分の死後は甲冑を着せ、柳川の方に向けて埋葬するよう遺言すると病没しました。

道雪の遺体は戦地に置いていくことはできないという家臣たちの意見から、遺体は遺言に反し戦場から運び出されました。その際には敵軍も道雪の亡骸を見送ったといわれます。

道雪の墓所は立花山城の麓・梅岳寺(福岡県糟屋郡新宮町)にあり、道雪の母・養孝院と家臣・薦野増時(こものますとき)と共に祀られています。




立花道雪の逸話

道雪の意味

永禄4年(1561年)、義鎮が鑑連(あきつら・道雪の初名)を補佐役である加判衆に命じ、翌年に義鎮が剃髪して「宗麟」と号すると、鑑連も道雪と名を改めました。

道雪とは「道に落ちた行きは消えるまで場所を変えず、武士も一度主君を得たならば、忠義を尽くして生きるのが本懐である」という由来があります。

道雪と雷

道雪は十代の頃、大木の下で昼寝をしていた際に夕立に降られ、その際に雷に打たれて左足が不自由になりました。

それでも若年は馬に乗って戦いましたが、晩年になると足の自由が利かなくなり、輿に乗って出陣しました。

輿に乗ったまま敵陣に突っ込み、自らも武器を手に戦う姿は、「鬼道雪」と称されていました。

鶴崎踊り

宗麟がまだ義鎮と呼ばれて若かった頃、遊興にふけって国政を顧みず、これに危機を感じた道雪は宗麟に拝謁を申し出たものの、宗麟は道雪に会おうとしませんでした。

そこで道雪は自邸で宴を開き、京都から美人の踊り子を呼んで昼夜躍らせました。堅物な道雪の行為に驚きながらも、宗麟は道雪の屋敷に行きます。

そこで道雪は宗麟に拝謁し、「自分さえ良くて、他はどうでもいいという考えは卑怯です。主人の過ちを正すのが臣であって、自分は折檻されて死んでも命は惜しくはありませんが、主人が世間の外聞を失うことが無念です」と諫言すると、宗麟はその言葉を聞き入れ、以後も宗麟の行状に問題があれば、道雪が諫言する関係が続いたといいます。

また、道雪が踊り子たちに踊らせた踊りは、大分市鶴崎に無形民俗文化財として伝わる鶴崎踊りの元になったといわれています。

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