1492年~1568年(享年77歳)
島津 忠良(しまづ ただよし)は、薩摩の戦国武将です。息子・島津貴久を島津宗家の15代当主とし、親子で島津家が薩摩大名となる基礎をつくりました。
「島津の英主」、「島津家中興の祖」とも称されます。
島津忠良の生まれ
忠良は明応元年(1492年)、薩摩国(鹿児島)島津の分家で伊作家の9代当主・島津善久の子として生まれました。そのため、伊作忠良とも呼ばれます。
明応3年(1494年)、父・善久が27歳で馬飼いの下男に殺害されると、母・島津常盤が一時的に伊作家の当主となります。
永正3年(1506年)に忠良が元服すると伊作家当主となり、永正9年(1512年)には島津の分家・相州家当主ともなり、21歳で田布施城(鹿児島県南さつま市)に入城して領主となりました。
忠良は善政を施して禅修行・学門をよく修めたため、領内外で徳の高い人物として知れ渡っていきました。
島津宗家当主
忠良が伊作・相州家の当主となった頃、島津宗家は11代忠昌、12代忠治、13代忠隆が相次いで病死し、永正16年(1519年)に11代忠昌の三男・島津勝久が家督を継ぎました。
勝久は島津の分家で薩州家当主・島津実久の力を借りて宗家の勢力を挽回しようとしましたが、実久が宗家の実権を握ろうと、まだ男子のなかった勝久に自身を世子にするよう要求します。
勝久が実久の要求を断ると、実久は挙兵して勝久を薩摩から追放し、薩摩守護を自称しました。
大永6年(1526年)、勝久は島津一族で英名の名高い忠良に支援を求め、忠良は国政委任を引き受けて忠良の嫡男・島津貴久を勝久の養嗣子としました。
貴久が元服すると勝久は貴久に守護職を譲り、忠良は貴久の後見となります。この際に忠良は33歳で出家して「日新斎」と号しました。
島津実久との家督争奪戦
島津宗家の家督を狙っていた実久は貴久の家督継承に納得せず、勝久と貴久との養子縁組を解消させようとします。
また、家督を譲った勝久までもが貴久に家督を譲ったことを悔いて、守護職の座を戻してほしいと言いました。
その後、勝久は実久に迎え入れられて守護職に復帰し、忠良・貴久父子と10年以上に及ぶ家督・勢力争いを続けました。
天文3年(1534年)、勝久は歴代の家臣を遠ざけて政務を怠り、俗曲戯芸に興じていたのを家臣らに諫められますが、勝久はこれを聞き入れませんでした。
更に家老・川上昌久が奸臣の末弘忠重を誅殺すると、勝久の命で自害に追い込まれたため、こうした勝久の振舞いから島津の忠臣たちは実久を頼って勝久を排除しようとしました。
天文4年(1535年)、実久が鹿児島を攻めると勝久は帖佐に逃れ、鹿児島を攻略した実久が勝久に代わって守護職を継承します。
その後、忠良は薩摩半島の掌握に努めていたところで勝久と和解し、天文8年(1539年)に加世田別府城の戦いで実久の軍を破って南薩を制します。
また、同年に実久の弟・忠辰を討つと、実久は本拠地の出水へ撤退したため
忠良・貴久親子は守護職に復帰し、天文21年(1552年)には室町幕府から正式に薩摩の守護職・戦国大名として認められました。
晩年
貴久が内城(鹿児島市大竜町)に移り住むと、忠良は天文19年(1550年)に加世田で隠居し、琉球を通じて明との貿易や城下町の整備、産業振興を行い善政を敷きました。
忠良は息子・貴久と共に島津が戦国大名となる基礎を築いたことから「島津家中興の祖」とも呼ばれます。
永禄11年(1568年)に忠良は加世田で死去し、墓所・加世田市の竹田神社(常潤院跡)で、殉死した2名の家臣と共に祀られています。
島津忠良の逸話
いろは歌
忠良は「いろは歌(日新公いろは歌)」を創作したことでも有名です。日新公いろは歌は47首の歌で人道を教え諭したもので、薩摩武士、士道教育の教典となり、幕末には薩摩藩の郷中(ごちゅう)教育の基本ともなりました。
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