織田木瓜

織田木瓜
1543?~1614(享年72歳?)
織田 信包(おだ のぶかね)は、織田信長の弟です。北伊勢を支配する長野工藤家に養子入りしていたため、「長野信良」とも名乗ります。信長、秀吉、家康に仕え、関ヶ原の戦い後は豊臣秀頼の補佐を務めました。




織田信包の生まれ

信包は天文12年(1543年)~天文17年(1548年)に尾張国(愛知)大名・織田信秀の四男として生まれました。

永禄11年(1568年)から兄・信長の命令で北伊勢の支配者・長野工藤家の養子に入りました。その後信長によって養子縁組は解消されたものの、旧長野家家臣団は引き継ぎ、信長に従って浅井長政討伐、長島一向一揆攻め、越前一向一揆攻めなどに参加しました。

その後信包は織田信忠、織田信雄の補佐も務めるなど、織田家の重鎮として厚遇されます。

豊臣政権下

天正10年(1582年)の本能寺の変が起こった際、信包は領国にいて事件には関わりませんでしたが、その後信雄や羽柴秀吉に従って伊勢安濃津15万石を領し、「津侍従」と称されました。

天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは秀吉側に付いて勝利し、戦後、伊勢での加増を受けてその後も秀吉に従います。

天正18年(1590年)、小田原征伐の際に秀吉に反抗した北条氏政北条氏直父子の助命を嘆願したため、秀吉の怒りを買い文禄3年(1594年)に改易されました。改易後、信包は出家して「老犬斎」と号し、慈雲院(京都市右京区)に隠居しました。

やがて秀吉の許しを得て近江国内に2万石を与えられ、秀吉の御伽衆として再度召し抱えられました。更に慶長3年(1598年)には丹波国氷上郡に(兵庫県丹波市柏原)に3万6000石を与えられました。

関ヶ原の戦い

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属し、丹後田辺城の細川幽斎を攻め立てて攻略したものの、西軍が敗北しました。戦後、徳川家康は信包の罪を問わず所領を安堵し、姪孫である豊臣秀頼の補佐を任せます。

しかし、信包は慶長19年(1614年)大坂冬の陣直前に大坂城内で死去しました。死因は病死説、片桐且元による毒殺説など諸説あります。

信包の子孫

信包の死後、信包系織田家の家督は三男・信則が継ぎました。信包の嫡男・信重は弟が家督を継ぐことに不満を持ち幕府に異議申し立てをしたものの、幕府は「信則の家督相続は信包の遺言によるもの」として信重の異議を却下し、僻事(ひがごと・道理に合わない申し立てをしたこと)の罪として信重の所領・伊勢林藩を没収されました。