1534年~1582年(享年49歳)
織田信長(おだ のぶなが)は、尾張国の戦国大名です。武力によって世を治める「天下布武」を唱え、天下統一を目指しました。
織田信長の家紋
織田家の家紋は織田木瓜(おだもっこう)です。元々尾張を守護していた斯波(しば)家より拝領した家紋といわれ、信長が着ていたとされる甲冑や陣羽織によく見られる家紋です。
木瓜紋は瓜の断面や花の形を表したものなど様々な説がありますが、卵の入った鳥の巣を上から見た図にも見えることから、子孫繁栄を表すとされています。
生まれ
信長は天文3年(1534年)に尾張国(愛知)の地方領主・織田信秀の三男として生まれました。幼名は吉法師(きっぽうし)といい、兄・信広がいましたが、信長の母が正室・土田御前であったため、織田家の嫡男として育てられます。
若い頃の信長は城下の若者と戯れて過ごすなど奇抜な行動が多く、うつけ者(馬鹿者)と評されていましたが、一説には敵を油断させるため、あえて「うつけ者」と思われるような振る舞いをしていたともいわれます。
父・ 信秀の死後、弘治2年(1556年)に織田家の家督を継いだ信長と弟・信勝(信行)の間で家督争いである稲生の戦いが起こり、この戦いに信長は勝利して信勝は降伏しました。降伏したことで一時は許された信勝ですが、その後再び謀反を起こし信長に討たれます。
永禄3年(1560年)、駿河・遠江・三河の三国を制していた今川義元が2万の軍勢を率いて尾張に侵攻してくると信長は圧倒的劣勢に立たされましたが、3,000の兵を率いて今川軍に奇襲を仕掛ける奇襲が成功し、義元の首を取ります。この勝利によって信長の名は天下に知れ渡りました。
稲葉山城の戦い
その後尾張を統一した信長は、次に隣国・美濃への侵攻を開始します。信長は美濃大名・斎藤道三と争っていましたが、道三の娘・濃姫を信長が妻に迎えることで和睦を結んでいました。しかし、道三が息子の斎藤義龍に討ち取られたことで情勢が変わり、和睦も破棄されます。
そうした状況の中、信長の下に美濃三人衆の氏家卜全、稲葉一鉄、安藤守就から、信長の味方になるという知らせが届きます。また、斎藤家では義龍が病死したため、家督は14歳の斎藤龍興が継いでいました。
この機会を逃さず、永禄10年(1567年)に信長は美濃へ侵攻し、斎藤家の居城・稲葉山城下に火を放ち美濃三人衆と城を包囲します。織田軍の包囲を受けた龍興は城から逃走し、これにより信長は美濃を平定しました。
信長は稲葉山城を岐阜城と改名して居城とし、天下布武を掲げて本格的に天下統一を目指します。
天下布武の意味
天下布武は「武を以て天下を制する」という意味ですが、「武」は「戈(ほこ)」を「止(とめる」と書くことから、暴力や戦を止める、民を安心させる、経済を安定させるといった意味があります。
つまり、本来「天下布武」は武力で天下を平定するという意味でなく、平和を願う精神で天下を平定するという意味があります。
姉川の戦い
元亀元年(1570年)、岐阜を本拠地としていた信長は、北近江を治める浅井長政と妹のお市の方を政略結婚させ、同盟関係を結びます。
しかし、その後信長が浅井家と親交のある朝倉家を攻めたため、最終的に長政は朝倉家を支援することに決め、信長から離反しました。浅井・朝倉家に挟まれ危機に陥った信長でしたが、何とか窮地を切り抜けて退却し、半年後に浅井家への報復戦に向かいます。
織田軍は姉川付近にある横山城を包囲して、浅井軍を城から引きずり出し、野戦で姉川は血で赤く染まったといわれるほど激戦となりましたが、徳川家康の支援もあり信長は勝利しました。
その後も織田家と浅井・朝倉家との対立が続きましたが、信長は天正元年(1573年)に一乗谷城の戦いで浅井・朝倉家を滅ぼしました。
長篠の戦い
天正三年(1575年)、三河設楽郡にあった長篠城は当時家康によって治められていましたが、そこへ武田勝頼が15,000の大軍を率いて侵攻してくると、家康は同盟関係にあった信長に援軍を要請します。
長篠城にいた兵はわずか500でしたが、信長は30,000の軍団を率いて三河に駆けつけます。信長にとっても武田の存在は脅威だったため、この機に乗じて一気に武田家を滅ぼす策を講じ、極楽寺山(愛知県新城市)に馬防柵を作らせ、3,000梃の鉄砲隊で勝頼の騎馬軍団を攻撃して壊滅に追い込み、勝利しました。
本能寺の変
天正10年(1582年)、信長は毛利輝元を討つ中国遠征準備のため、安土城から本能寺へ上洛していましたが、その間にしかし、明智光秀が信長に謀反を起こし本能寺を襲撃します。
信長も自ら槍や矢を手に戦ったものの、明智軍の大軍を前に、燃え盛る本能寺で自害し、信長の遺体が見つからなかったため生存説などもありますが、炎の勢いが強すぎたことで本能寺焼失後に信長の遺体が判別できなかったともいわれています。
織田信長の城
安土城
天正4年(1576年)、現在の滋賀県近江八幡市に築城された城です。およそ3年の歳月をかけて築城され、1579年に信長は居城を安土城に移しました。安土山の地形を活かして造られた平山城で、城郭は本能寺の変の際に焼失しましたが、石垣は現存しています。
石垣は築城の技能集団・穴太衆(あのうしゅう)によって積み上げられたもので、安土城は初めて石垣の上に建てられた城であり、その後の築城技術に大きな影響を与えています。
織田信長の愛刀
宗三左文字(そうざさもんじ)
刀匠不明の刀ですが、南北朝時代につくられた刀とされています。元々は三好一族の三好政長が所蔵する刀でしたが、政長出家後に武田信玄の父・武田信虎へ献上され、次に今川義元のものになります。「宗三」は三好政長が出家した後の名前です。
桶狭間の戦いで信長が義元を討ったことにより、戦利品として信長が所蔵することになりました。信長はこの刀を本能寺の変のときも肌身離さず持っていたとされています。刀は現存しており、京都市北区の建勲神社(たけいさおじんじゃ)に保存されています。
薬研藤四郎(やげんとうしろう)
山城国粟田口・藤四郎吉光の短刀です。応仁の乱を起こした畠山政長が追い詰められ自害しようとしたとき、腹に突き刺そうとしても刀が刺さらず投げ捨てたところ、薬研(薬草を作るときに使う道具)に刺さったため、名前に「薬研」の字が入ったとされています。
その後松永久秀の手に渡り、久秀が信長配下になった際に献上品として信長の手に渡りました。畠山政長の話から信長は主君を最後まで守る刀として気に入り、本能寺の変のときにも持ち歩いていたといわれています。本能寺の変によって焼失しましたが、秀吉が刀を焼き直し、焼き直されたものは徳川秀忠が所蔵していました。
織田信長の名言
名言①
絶対は絶対にない
【意味】
- 絶対に不可能と思われることでも突破口がある。迷う時間があるなら解決策を考える。
- 絶対に安心だと思って油断していると隙が生まれる。世の中に絶対といえるものはないので、過信してはならない。
名言②
臆病者の目には、敵は常に大軍に見える
【意味】不安なときには見えるもの、聞こえるもの全てが恐怖に感じられる。ただ恐怖は自分の心がつくり出すものであって、捉え方によってはチャンスに変えられる。
名言③
恃(たの)むところにある者は、恃むもののために滅びる
【意味】生まれつきの才能や得意なことを過信している人は、過信という油断のために負けるときが来る。才能の有無に関わらず、何事も努力する必要がある。
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