織田木瓜

織田木瓜
1558~1583(享年26歳)
織田 信孝(おだ のぶたか)は、織田信長の息子です。伊勢国北部を支配していた豪族・神戸家当主となったことから神戸(かんべ)信孝とも名乗りました。




織田信孝の生まれ

信孝は永禄元年(1558年)、尾張国(愛知)の大名・織田信長の三男として生まれました。母は側室で北伊勢の豪族・坂家の娘です。

永禄11年(1568年)、信長が北伊勢を平定した際に降伏した神戸城主・神戸具盛の養嗣子となりました。しかし、元亀元年(1570年)頃から信孝は具盛と不仲になると、信長が具盛を伊勢沢城へ強制的に隠居させたため、信孝が神戸家の当主となります。

以後は信孝の守役・幸田彦右衛門や岡本良勝らと共に神戸家をまとめ、天正2年(1574年)の長島一向一揆で初陣しました。その後も越前一向一揆平定や荒木村重討伐に参加し、滝川一益・神戸信孝・長野信包らと共に織田家の遊撃軍団として転戦しました。

本能寺の変

天正10年(1582年)、信孝は四国攻めのの総大将となり、織田家の宿老・丹羽長秀や蜂屋頼隆、津田信澄らと共に四国征伐の準備に取り掛かっていました。しかし、明智光秀の謀反による本能寺の変が起こり、織田信長と兄・信忠が死去します。

信孝は丹羽長秀・蜂屋頼隆と共に、明智光秀の娘婿であった津田信澄を殺害し、中国地方から帰ってきた羽柴秀吉と連携して山崎の戦いに出陣し、光秀を討ちました。

清須会議

織田家の後継者を決める清須会議は、宿老・柴田勝家、羽柴秀吉、池田恒興、丹羽長秀のみが出席し、織田家当主が三法師(織田秀信)に決定し、信孝は三法師の後見役を務めることになりました。

三法師は当時3歳であったため、織田家の実権は事実上信孝が握っていました。そのため次第に信孝は秀吉と対立し、秀吉は丹羽長秀・徳川家康らと織田信雄を織田家代行当主に据えると信孝を攻撃し、三法師を奪います。

賤ヶ岳の戦い

天正11年(1583年)、織田家の実権を諦めきれなかった信孝は賤ヶ岳の戦いで柴田勝家に付き、織田信雄・羽柴秀吉らに反発しました。

しかし勝家が敗北したため信孝も最終的に降伏し、信雄の命令によって信孝は自害しました。信孝の墓所は大御堂寺・野間大坊(愛知県知多郡美浜町)と福蔵寺(三重県亀山市)にあります。