1529年~1584年(享年56歳)
龍造寺 隆信(りゅうぞうじ たかのぶ)は、肥前国の戦国大名です。下剋上で北九州地方の大名・少弐家を倒し、豊後大友家、薩摩島津家に並ぶ九州三強の一人として肥前国を中心に勢力を拡大させました。
龍造寺隆信の家紋
龍造寺家の家紋は日足紋です。日足紋は日の丸紋と呼ばれる家紋の一種で、太陽の光を表しています。昔、肥前・肥後国は「日(ヒ)の国」と呼ばれていたことから、日足紋は北九州で多く見られる家紋です。
龍造寺隆信の生まれ
隆信は享禄2年(1529年)、肥前国(佐賀)の国人・龍造寺周家の長男として生まれました。
幼少期は大叔父・豪覚和尚の下で育てられ、天文5年(1536年)、7歳のときに仏門に入って中納言円月坊と名乗ります。
天文14年(1545年)、筑前、肥前の大名・少弐家に仕えていた祖父・龍造寺家純と父・周家が謀反の疑いをかけられて殺害されると、円月は曽祖父の家兼と共に筑後国の国人・蒲池家の元へ逃げました。
天文15年(1546年)、家兼は蒲池鑑盛の援助を受けて、家純と周家を討った少弐家臣・馬場頼周を討ち、龍造寺家を再興させます。家兼は円月に還俗して龍造寺家を継ぐよう遺言し、翌年病死しました。
家兼の遺言に従って円月は還俗し、胤信と名乗って龍造寺の分家・水ヶ江龍造寺家の当主となります。
龍造寺本家当主
その後、胤信は龍造寺本家の当主・龍造寺胤栄に仕えて少弐家と戦い、少弐冬尚を追放しました。
天文17年(1548年)、胤栄が死去すると胤信はその未亡人を娶って龍造寺本家の家督を継ぎました。胤信の家督継承に不満を持った家臣の反発を抑えるため、胤信は西国の大大名・大内義隆と手を組み、更に義隆から一字を与えられて隆信と名乗りました。
天文20年(1551年)、大内義隆が陶晴賢の謀反を受けて死去すると、後ろ盾を失った隆信は豊後国大名・大友宗麟と手を組みます。
その後、隆信はかつての主家であり、仇でもある少弐家を滅ぼし、周辺豪族を次々に滅ぼしていきます。やがて隆信の勢力は東肥前から南肥前まで及び、その急速な勢力拡大に宗麟は次第に危機感を抱くようになりました。
永禄12年(1569年)には宗麟自ら龍造寺討伐軍を率いて肥前に侵攻しましたが、宗麟領土の豊前国に安芸大名・毛利元就が攻め込んできたため、宗麟は討伐軍を撤退させました。
今山の戦い
元亀元年(1570年)、毛利軍を破った宗麟は再び龍造寺討伐軍を挙兵し、3,000の兵で侵攻してきます。龍造寺軍は佐嘉城に立て籠もって籠城戦になりましたが、このまま戦が長引けば佐嘉城も落城する危機が迫っていました。
そこで龍造寺家臣・鍋島直茂は佐嘉城の北にある今山、大友軍の敵本陣へ夜襲を進言します。直茂は奇襲隊を率いて大友本陣に攻め込むと、大混乱となった大友軍は壊滅状態となり大敗しました。
その後、大友家は薩摩島津家に耳川の戦いで敗北し、衰退の一途を辿ります。その騒乱に乗じて隆信は大友領土にまで支配を広げ、肥前、筑前、筑後の三ヶ国を所領する戦国大名となります。
沖田畷の戦い
天正12年(1584年)、南肥前の有馬晴信が島津の援助を受けて龍造寺家に離反し、隆信も2万5千の大軍を挙兵します。有馬・島津連合軍は兵力およそ1万と龍造寺軍が圧倒的有利でしたが、龍造寺軍は島津独自の戦法・釣り野伏の策略にかけられました。
龍造寺軍は逃げ場のない狭隘に誘い込まれ、島津家久軍と有馬勢から挟撃されて敗北し、隆信も島津家臣・川上忠堅に討たれ死去しました。隆信の墓所は高伝寺(佐賀市)にあります。
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