抱き杏葉

1548年~1586年(享年39歳)
高橋 紹運(たかはし じょううん)は、豊後国大名・大友家に仕えた武将です。耳川の戦いで大友家の衰退後、九州制覇を狙う島津軍と戦って大友家を守りました。

立花道雪と共に「風神の紹運・雷神の道雪」の名将として知られます。




高橋紹運の家紋

抱き杏葉
高橋家の家紋は抱き杏葉です。抱き杏葉紋は豊後大友家が使用していた家紋で、大友家臣・立花道雪もこの家紋を使用していました。

高橋紹運の生まれ

紹運は天文17年(1548年)、豊後国(大分)大名で大友義鑑の重臣・吉弘鑑理の次男として生まれました。

永禄4年(1561年)、13歳の時に起こった第四次門司城の戦いで初陣したとされ、永禄12年(1569年)に大友宗麟の命令で高橋家の岩屋城と宝満城を継ぎました。その後、紹運は立花道雪を補佐して北九州方面の守備に当たります。

耳川の戦い

天正6年(1578年)、大友家は薩摩国の島津家と戦い大敗しました。この戦いで有力武将が多数戦死し大友家が衰退し始めると、肥後国の龍造寺家や筑前国の秋月家などが大友領へ侵攻してきます。

耳川の戦い敗退を機に、高橋家の家老・北原鎮久は紹運に大友家を見限るよう進言しましたが、紹運はそれを拒否しました。高橋家の内情を知った秋月種実は鎮久を籠絡して紹運を放逐させようとしましたが、この企みは紹運に露見し、鎮久は岩屋城に登城する際に討たれました。

企みが紹運に露見していると知らない種実は岩屋城を奪うべく300名ほどの兵を岩屋城へ派遣しましたが、紹運率いる軍勢に待ち伏せされて秋月軍は大敗しました。

紹運の息子・統虎の婿入り

天正9年(1581年)、男児のいない立花道雪の願いを受けて、紹運は嫡男の高橋統虎(宗茂)を養子として差し出し、道雪の一人娘・立花誾千代と婚姻させました。そのため、高橋家の跡取りは次男の高橋統増となりました。

岩屋城の戦い

天正14年(1586年)、九州制覇を狙う島津家が大友家へ侵攻し、紹運の守る岩屋城を攻めました。

島津軍2万~5万の軍に対し、紹運は700人ほどで岩屋城へ籠城しましたが、島津が紹運へ降伏勧告をすると「あなたは島津家が衰退したら、主家を捨てて命を惜しむのか。武家に生まれた者として恩・仁義を忘れるものは鳥獣以下である」と降伏を拒否します。

半月に及ぶ間紹運ら島津軍3,000の兵を討ち取って抗戦しましたが、その後岩屋城の兵は全滅し、紹運も壮絶な最期を遂げました。

紹運の死後

岩屋城落城後、島津軍の総大将・島津忠長は紹運の首実検をする際に「我々は類まれなる名将を殺してしまった。彼の友になれたのであれば最高の友になれただろうに」と諸将と共に合掌して涙を流したともいわれています。

紹運や息子の宗茂が島津軍に抗戦したこともあり、豊臣秀吉の九州征伐軍が豊臣に臣従した大友家の援軍として間に合い、大友家は滅亡を免れました。

九州平定後、紹運の存在を知った秀吉も「この乱世で、紹運ほど忠勇の士が鎮西(九州)にいたとは思わなかった。紹運こそ乱世の華である」とその死を惜しんだといわれます。

高橋紹運の辞世の句・墓所

①「かばねをば岩屋の苔に埋めてぞ 雲井の空に名をとどむべき」
②「流れての世の末遠く埋れぬ 名をや岩屋の苔の下水」

【意味①】「遺骸を岩屋城の苔に埋めても、天高く名を轟かせよう」
【意味②】「時が流れた遥か未来には、私の名も岩屋城の苔の下を流れる水のように埋もれていくだろう」

紹運の墓所は岩屋城二の丸跡(福岡県太宰府市)と天叟寺(福岡県柳川市)、紹運寺(福岡県大牟田市)にあります。岩屋城には紹運の胴塚が四王寺山に、首塚は島津軍が陣取りした岩屋城の南側にあります。




高橋紹運の逸話

紹運の妻

紹運が大友家臣で斎藤鎮実の妹・宋雲院と婚姻する際、戦続きで婚儀の日が先延ばしにされ、その間に宋雲院は疱瘡を病みました。

病気の影響で容貌が醜くなったという理由で鎮実は紹運と宋雲院の結婚を破棄しようとしましたが、紹運は「私は彼女の容姿に惚れて婚約したのでなく、心の優しさなど内面に惹かれて婚約したのだから、容姿が変わろうと関係ない」と言い、宋雲院を妻に迎えて二男四女を儲けました。

また、天叟寺には紹運と宋雲院が夫婦合葬で埋葬されています。

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