三つ葉葵

三つ葉葵
徳川 秀忠(とくがわ ひでただ)は、江戸幕府2代将軍です。

徳川家康の跡を継いで公家諸法度、武家諸法度などの法を制定し、江戸幕府の基礎をつくりました。




徳川秀忠の生まれ

秀忠は天正7年(1579年)、三河(愛知)の大名・徳川家康と側室・西郷局の間に三男として生まれました。母方の家柄は三河の有力な国人で、秀忠は今川家臣・岡部貞綱の娘である大姥局によって育てられます。

長兄・松平信康は秀忠が5歳のときに切腹し、次兄・結城秀康は豊臣秀吉の養子となったため、秀忠が家康の跡目となりました。

天正18年(1590年)、秀吉によって行われた小田原征伐の際に秀忠は人質として上洛し、織田信雄の娘・春昌院と婚姻します。また、この頃に元服して長丸という幼名から、徳川秀忠となりました。

しかし、天正19年(1591年)に春昌院が病死したため、秀忠は文禄4年(1595年)に秀吉の養女・江と再婚しました。

関ヶ原の戦い

上田城
上田城(長野県上田市)

慶長5年(1600年)に起こった関ヶ原の戦いで秀忠は初陣し、別働隊として信濃上田城攻めを任されました。

しかし、真田昌幸の策を前に上田城を容易に陥落させることはできず、この間に家康から秀忠軍に美濃国・関ヶ原へ来るよう作戦変更が連絡されます。

しかし、秀忠への使者が途中、川の氾濫が原因で足止めを受けた影響で連絡が付くまでに一週間ほど遅れが出ていました。

連絡の遅れを受けて、家康は秀忠が到着するまで出陣を待つか家臣に相談しましたが、井伊直政がすぐに出陣するべきと進言したため、家康は直政の意見を容れて決戦に臨みました。

結果、秀忠は関ヶ原決戦には間に合わず、行軍途中で東軍の戦勝報告を受けることになりました。




江戸幕府

江戸城
江戸城(東京都千代田区)

慶長8年(1603年)、江戸幕府を開いた家康は、後継者を秀忠と定め、2年後に家康から家督を譲られて第2代将軍となります。

その後家康は大御所として伏見城で外様大名の統治に当たり、秀忠は江戸で譜代大名を統治しました。また、秀忠は家康と共に武家諸法度・禁中並公家諸法度など武家と公家に対する法を制定しました。

秀忠の最期・墓所

増上寺
増上寺(東京都港区)

元和2年(1616年)に家康が死去すると、秀忠は外様大名を改易し、子の忠長に駿河・遠江・甲斐を与え、弟を尾張・紀伊・水戸に置くなど徳川による大名統制を強化していきます。

元和9年(1623年)、秀忠は上洛後に家督を嫡男・家光に譲り、秀忠は江戸城西の丸に移り大御所として政務を行いました。

寛永7年(1630年)には秀吉の孫が明正天皇として即位したため、秀忠は天皇の外戚になりました。

寛永9年(1632年)、元々体調を崩していた秀忠は亡くなり、死因は胃がんといわれています。

秀忠の遺体は台徳院霊廟(東京都港区)にありましたが、戦災で焼失したため増上寺に改葬され、妻の江と共に祀られています。

徳川秀忠の逸話

秀忠の性格

侍
秀忠は実戦経験が少なかったことから武将としての評価は低かったものの、温厚な性格であったことから平和を築く将軍に相応しい人格として、家康から次の将軍に選ばれたともいわれています。

また、秀忠は冷静沈着な人物でもあったようです。ある時、弟の徳川義直と能を鑑賞している際に地震が起こり、義直は驚き慌てましたが、秀忠は落ち着いていました。

そして「下手に動かないほうが良い」と慌てる義直を制し、家臣たちに地震への対応を素早く指示したといいます。

秀忠の体格

秀忠の遺骨を改葬する際、土葬されていた秀忠の遺骨調査が行われました。

結果、秀忠の身長は約157.6cm、血液型はO型と判断され、江戸時代の平均身長は155㎝ほどであったことから、秀忠は平均的な身長であったことが分かりました。

また、骨格の調査から秀忠の体格は鍛えられて筋肉質であったと推定されており、遺骨には銃創がありました。

そのため、秀忠は骨まで及ぶ傷を受けてもそれに耐え抜く丈夫な体力、生命力があったといわれています。

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