丸に十字

丸に十字
1570年~1600年(享年30歳)
島津 豊久(しまづ とよひさ)は、薩摩国の大名・島津家に仕えた武将です。

伯父の島津義弘と共に九州各地を転戦し、関ヶ原の戦いで義弘を薩摩へ帰還させるため「島津の退き口」と呼ばれる敵中突破を行いました。




島津豊久の生まれ

豊久は元亀元年(1570年)、薩摩国(鹿児島)の島津家臣・島津家久の子として生まれ、幼名は豊寿丸と名付けられました。

天正12年(1584年)、14歳の時に肥前の大名・龍造寺家と戦った沖田畷の戦いで初陣し、勝利後に元服して豊久と名乗りました。

天正15年(1587年)に父・家久が亡くなると、豊久はその跡を継いで日向国佐土原城(宮崎市佐土原町)の城主となります。

豊臣政権下

豊臣秀吉によって九州征伐が始まると、島津家は豊臣家に抗戦しましたが、圧倒的な兵力差を前に最終的には臣従し、その後豊久は伯父の島津義弘に従いました。

豊臣政権下では文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵に参戦し、豊久は義弘と共に6年間の朝鮮滞在を経て軍功を挙げました。

関ヶ原の戦い

慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが起こると、島津軍は西軍に属しましたが、小早川秀秋が寝返ると西軍は劣勢になり、やがて島津隊は戦場で孤立状態になりました。

敗北を悟った義弘は切腹を覚悟しましたが、豊久が義弘を説得し、既に占拠された西側でなく、まだ乱戦状態にある東側を敵中突破して撤退する捨て奸(すてがまり)を提案しました。

豊久はこの撤退中に殿(しんがり)を務め、追撃してくる徳川軍の前に立ち塞がり、井伊直政、本多忠勝ら名将と戦って亡くなりました。

一方義弘は、豊久らの奮戦のおかげで無事薩摩まで帰国できました。

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