丹羽直違

丹羽長秀
1535年~1585年(享年51歳)
丹羽長秀(にわ ながひで)は織田信長、豊臣秀吉に仕えた武将です。信長の下で数々の武功を挙げたことから織田家で最初の国持大名となり、信長にも厚く信頼されました。

長秀の「長」の字は信長から与えられた一字で、信長とは兄弟のように親しい主従関係だったといわれています。




丹羽長秀の家紋

丹羽直違
丹羽家の家紋は、丹羽直違紋(にわすじかいもん)です。直違は柱と柱の間に作る建物を補強する木材であったことから、家や城を守るという意味がこめられています。

一説には、合戦中に血の付いた刀を拭ったとき、布に×の形が付いたこと、馬印の短冊(戦場で武将が自分の居場所に立てる標識)が激しい戦いの末、2本だけ残ったなどの由来もあります。

丹羽長秀の生まれ

長秀は天文4年(1535年)、尾張国(愛知)で丹羽長政の次男として生まれます。丹羽家は尾張を守護していた斯波氏(しばし)の家臣でしたが、長秀は天文19年(1550年)から織田信長に仕えました。

信長には「五郎左」と呼ばれており、これは五郎という名と左衛門尉(官位)を合わせたものです。長秀は文武両道の人物であったことから、米のように毎日欠かせない人物という意味をこめて「米五郎左」とも呼ばれていました。




織田四天王・丹羽長秀

織田四天王とは、織田家で大きな功績を残した武将のことです。
丹羽長秀、柴田勝家滝川一益明智光秀の4人の武将が四天王と呼ばれています。

長秀は信長が若い頃から仕えていた武将であり、武勇に優れ、内政にも通じ、人望もありました。信長からの信頼も厚く、信長の兄の娘・桂峯院を妻に迎え、長秀の嫡男・長重も信長の五女と婚姻を結びました。

若狭領主

信長の美濃平定や観音寺城の戦いなどで武功を挙げた長秀は、天正元年(1573年)に武田元明の領地であった若狭を与えられます。

その後も長秀は、長篠の戦いや越前一向一揆の征伐などで活躍し、その武勇から「鬼五郎左」と呼ばれました。また、信長からは安土城の普請の総奉行も任されます。

本能寺の変

織田家老として柴田勝家に次ぐ席次まで出世した長秀でしたが、天正10年(1582年)に本能寺の変が起こります。長秀は信長の三男・信孝と共に羽柴秀吉軍に参戦し、山崎の戦いで明智光秀を討ちました。

信長の後継者を決める清須会議では、秀吉が推薦した信長の嫡孫・三法師(織田信秀)を長秀も支持します。この会議をきっかけに秀吉と柴田勝家が対立し、天正11年(1583年)に賤ヶ岳の戦いの戦いが起こりました。

この戦いで長秀は秀吉側について勝利し、戦後は若狭に加え越前と加賀の領地を与えられ、約123万石の大大名となります。

最期

天正13年(1585年)、長秀は51歳でこの世を去ります。死因は自決、病死など諸説あります。

自決説では信長の死後、長秀は秀吉に協力していましたが、これは秀吉が織田家を守って取り立ててくれると考えていたためです。しかし秀吉は自らが天下人になる道を選んだため、長秀は自分の不明を恥じて自決したと考えられています。

病死の場合、積寸白(寄生虫病)が死因といわれます。寸白(すばく)とはサナダムシのことですが、「秀吉譜」の記録によると「その虫には尖ったくちばしがあった」ということから、蛔虫(かいちゅう)が死因と考えられます。

蛔虫は小腸に寄生する虫で、体内の栄養分を奪い、毒素を分泌して体調を悪化させ、尖った頭で体内器官を破壊していきます。寄生数が多いほど意識障害や死に至る病気です。

また、秀吉が織田家をないがしろにして天下人になろうとする状況を抑制できないことに多大なストレスを感じ、胃がんを発症して亡くなったという説もあります。




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