武田菱

武田菱
1583年~1603年(享年21歳)
武田 信吉(たけだ のぶよし)は、徳川家康の息子です。

家康に仕えて甲斐武田家を復興し、水戸城に入りましたが、若くして夭逝しました。2代水戸藩主・徳川光圀は信吉の甥に当たります。

武田信吉の生まれ

信吉は天正11年(1583年)、徳川家康の五男として生まれました。母は甲斐武田家臣・秋山虎泰の娘です。

一説には家康が側室に武田の血族を求めたため、虎泰の娘を武田信玄の末娘として、穴山信君の養女とし、家康に輿入れさせたともいわれています。

武田当主になるまでの経緯

天正10年(1582年)の織田・徳川連合軍による甲州征伐後、甲斐河内領主の穴山信君は織田・徳川家に臣従しましたが、本能寺の変後に信君は上方で横死します。

信君没後、子の勝千代が穴山当主となりましたが、勝千代は16歳で病没したため、穴山武田家は断絶されました。

信君は織田・徳川に臣従する際に秋山虎泰の娘・於都摩の方を家康に差し出しており、於都摩の方は家康の側室となりました。その後、家康と於都摩の方の間に信吉が生まれ、母方から武田の血を継いでいることで、断絶していた武田家の家督を相続しました。

家康臣下

信吉は元服後に穴山家が支配していた甲斐河内領のほか、江尻領・駿河山西・河東須津を与えられ、天正18年(1590年)の小田原征伐後は家康の関東移封に従って下総国小金城3万石へ移りました。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは江戸上での留守居役を務め、戦後は西軍に属した疑いをもたれた佐竹家に替わり、常陸国の佐竹家が支配していた常陸国水戸15万石に封ぜられ、旧穴山家臣や武田遺臣を付けられて武田家を再興しました。

再興と断絶

武田家を再興した信吉でしたが、慶長8年(1603年)、元々病弱であった信吉は疥癬(皮膚感染症)で病没しました。信吉には子がいなかったため、武田家は再び断絶しました。

信吉没後、水戸藩には異母弟の徳川頼宣が入り、頼宣が駿府に移封の後は、異母弟の徳川頼房が入部し、水戸徳川家の祖となりました。