1506年~1561年(享年55歳)
穴山 信友(あなやま のぶとも)は、甲斐武田家に仕えた人物です。
武田家に仕えながらも駿河今川家と独自の外交関係を結んだため、武田家と今川家の仲介を務めました。
穴山信友の生まれ
信友は永正3年(1506年)頃に河内地方の国人・穴山信風の子として生まれました。
穴山家は河内甲斐武田家に仕えており、信風没後、信友は穴山家の家督を継いで武田家に仕えました。
信玄配下
天文10年(1541年)に武田信玄により武田信虎が追放されると、家督を相続した信玄は信濃侵攻を始めます。
信友は信濃守護・小笠原長時と連合し伊那郡の藤沢頼親攻めに参加し、頼親の弟・権次郎を人質として引き取り、後に信玄に出仕させました。
その後も信友は川中島の戦い、塩尻峠の戦いなどで別働隊として参戦し、天文16年(1547年)頃には河内領南部から北側に本拠を移転し、穴山氏館を居城として城下町整備を行いました。
今川家との外交
信濃侵攻後、信友は武田家と駿河今川家の仲介役を行いました。
甲相駿三国同盟が結ばれた際には、同盟の一環として信玄の嫡男・武田義信と今川義元の娘の婚姻仲介を行い、義元の娘は甲府の穴山氏館を経て、武田居城・躑躅ヶ崎館に入りました。
また、武田・今川家の婚姻を仲介した給与として、信友は義元から駿河山西稲葉荘の所領が与えられました。
信友は永禄元年(1558年)頃に隠居してその後も今川・武田間の外交を務めましたが、永禄3年(1560年)に死去しました。
墓所は信友の肖像画が所蔵されている円蔵院(山梨県南部町)にあります。