1539年~1582年(享年43歳)
一条 信龍(いちじょう のぶたつ)は、武田信玄の異母弟です。
武田信玄・勝頼親子に仕え、武田二十四将に数えられる名将として知られています。
一条信龍の生まれ
信龍は天文8年(1539年)頃、甲斐武田当主・武田信虎の八男として生まれました。
信龍は側室の子で、鎌倉時代に断絶していた甲斐源氏・武田信義の二男・一条忠頼を祖とする一条家の養子となり家督を継ぎました。
武田親族衆
天文10年(1541年)に父・信虎が追放されて異母兄の武田信玄が当主となると、信龍は兄の信繫と信玄の側近として仕えました。
戦場では主に後衛を担当していましたが、元亀3年(1572年)、三方ヶ原の戦いでは山県昌景と徳川軍を撃退したといわれています。
武田家滅亡
信玄没後は遺書により勝頼の後見人を託され、天正3年(1575年)の長篠の戦いにも参戦しました。
信龍は織田方の佐久間信盛隊の柵を二重まで破ったものの、鉄砲によって潰走し、勝頼が戦線離脱すると信龍も撤退しました。
天正10年(1582年)からの織田・徳川による甲州征伐では、徳川軍の駿河侵攻を受けて撤退し、上野城(山梨県市川三郷町)へ籠城しました。
その後家康軍に城を包囲されると、信龍は子の信就(のぶつぐ)と三河勢1万に突撃しましたが、手勢3百と圧倒的な兵力差を前に親子で討ち死にしました。