1489年?~1548年(享年56~59歳)
板垣 信方(いたがき のぶかた)は、甲斐武田家に仕えた武将です。

武田四天王、武田二十四将の一人で、武田信玄を当主に据えて各地で戦で活躍し、山本勘助など有能な人物を武田家に引き入れました。

信虎時代

信方は延徳元年(1489年)~明応元年(1492年)頃、甲斐武田家の分家・板垣信泰の子として生まれました。

板垣家は甲斐一条荘(山梨県甲府市)を本拠とした有力国人衆で、武田信虎に仕えた信方は甲斐国統一を目指して若い頃から各地を転戦しました。

永正18年(1521年)、今川配下の福島正成が甲斐に侵攻してくると、信方は諸将と共に今川軍を撃退し、その功績から信虎の嫡子、武田晴信(信玄)の傅役を任されました。

戦後、信方は今川家との和睦を成立させ、その過程で山本勘助が武田家に登用され、信方が勘助を通じて今川の情勢を探ったともいわれています。

天文4年(1535年)、今川家が武田家との和睦を破り相模の北条家と甲斐へ侵攻してきましたが、武田軍は今川・北条軍の撃退に成功しました。

しかし、武田家は勝沼信友や小山田弾正らを失い、更に戦場となった郡内は戦火に見舞われたことから、信虎は和睦交渉に関わった信方に駿河攻めを命じ、信方勢は今川氏輝が亡くなるまで駿河で苦戦を強いられました。

信玄時代

信虎による度重なる対外勢力との戦いや信方に行った駿河攻めなどの苛烈な仕打ちにより、武田家中や領民間では信虎に対する不満が次第に高まり、やがて晴信(信玄)は父の国外追放を決意しました。

天文10年(1541年)に信虎は娘婿の今川義元に会うため駿河へ出発し、その間に信方は甘利虎泰、飯富虎昌らの重臣と国境を封鎖して、信玄を武田家の当主に据えました。

信虎追放に尽力した信方と甘利虎泰は武田家最高職の「両職」に任じられ、家臣団の重鎮として重用されていきます。

信虎追放の翌年、信玄は信濃国諏訪郡へ侵攻して高遠頼継と連携し、諏訪頼重を滅ぼしました。その後、諏訪家の惣領を巡って武田と高遠家が対立すると、信玄の副将として参陣していた信方は諏訪郡へ侵攻した高遠頼継を安国寺の戦いで撃退し、その功績から諏訪郡代を任されて上原城に入城しました。

小田井原の戦い

天文16年(1547年)、信玄は信方率いる諏訪衆と共に大軍で信濃佐久郡に侵攻し、志賀城の笠原清繁を包囲しました。

関東管領・上杉憲政が志賀城への援軍として大軍を派遣すると、信方と甘利虎泰は関東管領軍の迎撃に当たり、敵将15、兵3000人を討ち取り、その首級を志賀城の目前に並べたといい、救援の望みを失った志賀城はやがて落城し、信玄は佐久郡の平定を終わらせました。

この頃から信方は信玄の許可なく単独で恩賞や勝鬨式、首実検を行うなど増長した行いがあり、信玄も信方の態度を諫めたといわれますが、佐久郡平定後に行われた乱妨取り(兵による人・物などの掠奪)などは、信方が主導したという説もあります。

ただし、こうした信方の傲慢な行動については江戸時代以降の書物に記されたものであり、信方の人物像に関しては信玄に仕える忠臣だった、言うことを聞かない、信玄にとって目の上の瘤のような存在だったなど諸説あります。

上田原の戦い

天文17年(1548年)、武田軍は北信濃の村上義清を討つため小県郡へ出陣し、信方も諏訪衆を率いて先鋒を務めました。

戦況は武田軍の優勢で、信方は先鋒隊として敵陣深くまで攻め入りましたが、連戦連勝による油断か、敵前で勝鬨を挙げ、首実検を行っていたところを村上軍に急襲されます。不意を突かれた板垣勢は村上軍に次々と討たれ、信方も馬に乗ろうとしたところを槍で討ち取られました。

上田原の戦いは武田軍が大敗し、信方のほか甘利虎泰、才間河内守、初鹿伝右衛門らも討死しました。信方の墓所は戦死した上田原にあり、板垣神社(長野県上田市)で祀られています。

辞世の句

飽かなくも、なほ木のもとの夕映えに、月影宿せ花も色そふ

【意味】飽きることなくこれからも、木に照り返す夕映え月の光を重ねよう。そうすればも色を添えて輝くだろう。

この句は

  1. 夕映え…武田信虎、月の光…武田信玄、花…甲斐国
  2. 月の光…山本勘助、花…武田信玄

の2つの解釈があります。

【意訳】

  1. 信虎・信玄の栄光を死んでも忘れずにいよう。きっと甲斐はこれからも繁栄するだろう。
  2. 勘助が月影となり、信玄という花を照らし続けることこそ、まことの軍師といえるでしょう。

1だと辞世の句として自分の思いを綴る表現ですが、2の意味だとすると、信玄への遺言を籠めたとも解釈できます。

子孫

信方没後、家督は嫡男・信憲が継ぎ、両職として信玄に仕えましたが、不行跡が目立ったことから武田家から追放され、後に信玄が送った刺客に誅殺されました。

板垣家は一時断絶しましたが、信方の娘婿・於曾左京亮(板垣信安)が信玄の命を受けて板垣家の名跡を継ぎ再興されました。

一方、武田家から追放された信憲の遺子は山内一豊の家臣となり、乾正信と名乗りました。正信の子孫は土佐藩士として存続し、幕末に戊辰戦争で活躍した板垣退助は末裔に当たります。