1498年?~1548年(享年50歳?)
甘利 虎泰(あまり とらやす)は、甲斐武田家に仕えた武将です。
武田二十四将の一人で、武田信虎の時代には武田四天王に数えられました。
甘利虎泰の生まれ
虎泰は明応7年(1498年)頃に武田家の庶流・甘利宗信の子として生まれ、板垣信方、飯富虎昌、原虎胤らと共に武田信虎に仕えました。
戦上手として信虎から重宝されて宿老となりましたが、天文10年(1541年)に武田晴信(信玄)によって信虎が追放された際は、虎泰もこれに関与したといわれています。
元々信玄は信虎と性格が合わず疎まれていましたが、虎泰など一部の家臣は信玄の才能を見抜いており、やがて信玄に信虎追放に加担するよう要請されると虎泰はそれに従ったとされています。
信玄時代
天文11年(1542年)には甲府に虎泰の屋敷が新築され、信玄が武田当主となった後も虎泰は宿老として信玄を補佐し、翌年から信玄によって信濃諏訪郡への侵攻が始まると、虎泰はこれに従軍して功を挙げ、諏訪郡司(郡代)に任命されました。
天文16年(1547年)、信濃佐久郡の志賀城攻めに参加した虎泰は、板垣信方と別動隊を率いて関東管領・上杉憲政を小田井原の戦いで打ち破り勝利します。
天文17年(1548年)、信濃小県郡に侵攻した武田軍と北信濃の村上義清との間で起こった上田原の戦いでは板垣信方が討ち取られ、それに勢いづいた村上軍から信玄を守るため、虎泰は才間河内・初鹿野伝右衛門らと共に戦い亡くなりました。
子孫
虎泰には信忠(昌忠)・信康の子がおり、家督は信忠が継ぎましたが、永禄10年(1567年)に亡くなりました。
信忠の子はまだ幼かったため、信康が名代となり補佐しましたが、信康は天正3年(1575年)に長篠の戦いで亡くなりました。
その後の信頼の動向は分かっていませんが、虎泰の娘は上野安中城主・安中景繁の後室、信濃伊那郡飯田城主・坂西左衛門の正室となりました。