1526年~1573年(享年48歳)
浅井 久政(あざい ひさまさ)は、北近江の戦国大名です。近江守護・六角家に従って浅井家が戦国大名となる基礎を築き、後に嫡男・長政に家督を譲りました。
浅井久政の生まれ
久政は大永6年(1526年)、北近江(滋賀)の国人・浅井亮政の長男として生まれました。
天文11年(1542年)に亮政が逝去すると浅井家の二代目当主となりますが、当時は近江守護・六角家の勢力が強く、浅井家は六角家に臣従する形で勢力を保っていました。主従の証として、六角家は久政の子に六角義賢の一字から「賢政」(後の浅井長政)と名乗らせ、更に賢政の妻に六角家臣・平井定武の娘を娶らせます。
家督譲渡
久政が六角家の命令に従属的な姿勢を取り続けたことで、浅井家臣は久政に不満を持つようになり、後に賢政を擁立して浅井家当主とし、久政を強制的に隠居させます。
しかし久政としては六角家の庇護を受けることで、他国の勢力を牽制して領国経営に専念する考えがあり、六角家に従う間に父・亮政が傘下に収めた土豪たちの収束や領土の治世に専念することができました。
当時、浅井家の領土では河川用水の使用区域で土豪らが対立していました。そこで久政はこの問題を調停するため、用水路や灌漑(かんがい・農地に人工的に水を供給すること)の拡大事業を進め、村ごとに使用できる水量や優先順位を定めて村同士の争いが起こらないようにします。
こうして内乱を防いだ久政の奔走が、後に浅井家を北近江の国人盟主から、戦国大名へ押し上げる基礎を築きました。
北近江浅井家
永禄3年(1560年)に賢政が野良田の戦いで六角義賢に勝利すると、浅井家は六角家から独立し、北近江の戦国大名としての地位を確立します。隠居後も久政は浅井家の調停役を務め、当時聖地として信仰された近江竹生島の寺社援助を行うなど内政を行い、浅井家の名を世に喧伝しました。
その後、賢政は「長政」と改名して織田家と同盟を結び、永禄11年(1568年)には信長に協力して足利義昭を上洛させ、新政権を樹立しました。同年、浅井家は近江西部の名門・朽木家を臣従させて、要衝である京都への物流経路を確保します。
浅井家から朽木家へ宛てた所領に関する書状には、長政だけでなく先代当主・久政の名も記されていることから、朽木家を傘下にするには久政の権威も欠かせなかったことを意味しており、久政は隠居したとはいえ、家中での発言力があったことが窺えます。
同盟決裂
上洛後、信長は上洛作戦に参加せず、更に足利義昭と信長からの上洛要請を無視し続けた越前朝倉家を攻めます。しかし朝倉家は浅井家と同盟関係にあり、また信長と同盟を組む条件にも「朝倉不戦の誓い」を約束させていました。信長がその条件を破ると、長政は父祖の代から同盟関係にある朝倉家を選び、織田家から離反しました。
浅井家の離反で窮地に立たされた信長は朝倉攻めから撤退しましたが、その後、信長から浅井家への報復戦が始まります。浅井家は朝倉家と共に織田軍に対抗しましたが、やがて織田軍に敗北して近江西部・南東部は織田軍に支配されていきました。
織田軍と対立する間、久政は浅井傘下の国人衆に感謝、激励の書状を出し、国人衆らの離反を防ぐよう奔走しましたが、天正元年(1573年)、織田軍は浅井家の居城・小谷城を攻撃します。
堅牢な城は織田軍の攻撃に持ちこたえましたが、木下藤吉郎が京極丸を落としたことで、久政のいた小丸と長政のいた本丸が分断されました。
最期を悟った久政は切腹し、その後織田軍への降伏を拒否した長政も、家臣たちを城から退去させた後に自害しました。