1531年?~1575年
原 昌胤(はら まさたね)は、甲斐武田家に仕えた武将です。

武田二十四将の一人で、主に取次役(外交官)や内政に務めて武田家を支えました。

生涯

昌胤は武田譜代家臣・原昌俊の嫡男として生まれました。昌俊・昌胤の原家は美濃土岐家の庶流とされ、平時は土木・治水工事の技術を持つ家として重用されていました。

また、武田家中には同姓の足軽大将・原虎胤がいますが、出自は別系統であるとされています。

天文19年(1550年)に昌胤は家督を継ぎ陣馬奉行として120騎を任せられ、弘治2年(1556年)の信濃侵攻では信玄の側近として従軍し、永禄4年(1561年)の西上野侵攻では土屋昌続ら他の家臣と上野国衆への取次(交渉役)を務めました。

永禄12年(1569年)の駿河侵攻で今川方の大宮城(静岡県富士宮市)が開城すると、昌胤は市川昌房と大宮城代を務めて富士山本宮浅間大社や静岡浅間神社などの寺社支配を行い、富士郡支配に貢献します。

甲斐国内では諸役免許や軍役動員などの朱印状や訴訟関係文書を作成する内政を担当し、信玄没後は勝頼に仕えましたが、天正3年(1575年)の長篠の戦いで内藤正豊らと徳川本陣を目指して進軍し、鉄砲隊の攻撃を受けて戦死しました。

子孫

昌胤には昌栄(まさひで)、昌弘、貞胤の子がおり、昌栄は昌胤没後、家督を継いで勝頼に仕え、天正8年(1580年)に上野国・善城(群馬県前橋市)で負傷し亡くなりました。

次男・昌弘は元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いで戦死していたため、その後は三男・貞胤が家督を継ぎ、武田家滅亡後は徳川家康に仕え、越前松平家の家臣となります。

貞胤はかつて真田昌幸と同僚であったことから、大坂の陣の和議では昌幸の子・信繫(幸村)の説得を務める役目を担当したとされています。

慶長20年(1615年)、越前松平軍と信繁の軍は大坂夏の陣で戦い、その後越前軍・西尾宗次が討ち取った信繁の首実検を貞胤が行いました。