1497年~1564年(享年68歳)
原 虎胤(はら とらたね)は、甲斐武田家に仕えた武将です。

武田二十四将の一人で、武勇名高く、攻城戦に長けていたことから「鬼美濃」と称されていましたが、戦場では負傷した敵将を敵陣まで送り届けるなど、人情深い大将でもあったといわれています。

信虎時代

虎胤は明応6年(1497年)、原友胤の子として生まれました。

元々、原家は下総国衆・臼井原家の一門でしたが、永正10年(1513年)に小弓城合戦で足利義明軍に敗北して居城・小弓城を奪われ、虎胤は父と甲斐へ逃れて武田信虎に仕えたとされています。

父・友胤は信虎の下で功績を挙げ、虎胤も信虎から「虎」の一字を賜り足軽大将として信虎に仕え、大永元年(1521年)には飯田河原戦で今川軍の福島正成(北条綱成の実父)を討ち取る功績を挙げました。

天文10年(1541年)に信虎が武田晴信(信玄)に追放されたとき、信虎から重用されていた虎胤は、主君追放の知らせを受けて板垣信方や甘利虎泰に猛抗議したといわれています。

しかし、信虎追放後は信玄が武田家当主となったため、以降虎胤は信玄に仕えることになります。

信玄時代

天文11年(1542年)から信玄が始めた信濃侵攻の際、虎胤は信濃守護・小笠原家との戦いで活躍し、平瀬城(長野県松本市)の城代を務めました。

その後、浄土宗信者であった虎胤に信玄が日蓮宗に改宗するよう迫ると、虎胤はこれを拒絶したため甲斐を追放され、相模の北条家へ身を寄せます。

しかし、天文23年(1554年)に甲相駿三国同盟が結ばれた際に武田家に戻り、北条氏康は虎胤に惜別の念を表したといわれます。

永禄4年(1561年)の信濃割ヶ嶽城の攻略で負傷して以降、虎胤は合戦に参加せず一線を退き、永禄7年(1564年)に病没しました。

子孫

虎胤には横田康景、盛胤、重胤の3人の息子と2人の娘がいたとされ、康景は武田家足軽大将・横田高松の婿養子になって横田姓を名乗り、天文19年(1550年)の戸石城攻め(砥石崩れ)で養父・高松が戦死すると家督を継いで信玄に仕えました。

その後は足軽大将として騎馬30騎・足軽100人を与えられ、信玄没後は武田勝頼に仕えましたが、天正3年(1575年)の長篠の戦いで51歳で戦死しました。

次男・盛胤は虎胤没後、原家の家督を継いで信玄・勝頼に仕えましたが、兄と同じく長篠の戦いで戦死し、三男・重胤の家系は武田家滅亡後に真田昌幸を頼って落ち延び、松代藩・沼田藩真田家に仕えたといわれています。

虎胤の2人の娘のうち、1人は「鬼虎」と呼ばれた小畠虎盛の子・小幡昌盛の正室となり、信玄が「鬼(鬼虎)の子には鬼(鬼美濃)の娘が相応しい」として婚姻を取り計らったといわれ、もう1人の娘は武田足軽大将・初鹿野忠(はじかの ただつぐ)の側室となりました。