七つ酢漿草

七つ酢漿草
1575年~1615年(享年41歳)
長宗我部 盛親(ちょうそかべ もりちか)は、土佐国の戦国武将です。

長宗我部家で最後の当主で、関ヶ原の戦いや大坂の陣で豊臣方の武将として戦いました。




長宗我部盛親の生まれ

盛親は天正3年(1575年)、土佐国(高知)の大名・長宗我部元親の四男として生まれました。

天正14年(1586年)に戸次川の戦いで元親の嫡男・信親が戦死したため、次男・香川親和や三男・津野親忠との間に家督争いが起こりましたが、盛親は父の推薦もあり、長宗我部家の後継者となりました。

慶長4年(1599年)に元親が亡くなると、盛親は豊臣政権下で土佐国主となります。

関ヶ原の戦い

伏見城
伏見城(京都市伏見区)

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで盛親は西軍に属し、伏見城や安濃津城など東軍の城を陥落させながら関ヶ原へ向かいました。

しかし、関ヶ原の合戦では吉川広家に行く手を阻まれ、長宗我部軍は決戦に参加できないまま敗北することになりました。

戦後、盛親は土佐国を召し上げられて浪人となり、京都所司代・板倉勝重の監視下に置かれて暮らしました。

浪人の間、盛親は寺子屋の師匠をしていた、旧家臣らの仕送りを受けて生活していたなど諸説あります。




大坂の陣

大坂城
大阪城(大阪市中央区)

慶長19年(1614年)、豊臣、徳川の対立が深まると、盛親は板倉勝重から徳川家康、豊臣秀頼どちらに付くかを問われました。

盛親は勝重に徳川に付くと言いましたが、その後京都を脱出し、大坂城に入城して豊臣に付きます。盛親が引き連れてきた手勢1,000人は牢人として最大数であったため、「五人衆」と呼ばれる主力部隊の一つとなりました。

冬の陣で、盛親は真田信繫(幸村)が築いた真田丸の支援、防衛を任され、井伊直孝隊・松平忠直隊などを撃退しました。夏の陣では徳川本陣を攻めるため5千余の軍勢を率いて出陣し、藤堂高虎と戦います。

長宗我部隊の先鋒・吉田重親の隊が藤堂隊と戦って壊滅すると、藤堂隊はその勢いで盛親隊まで攻め込んできました。

しかし盛親隊は藤堂鯛を十分に引き付けた後、槍兵を突撃させて反撃に出たため、思わぬ反撃を受けた藤堂隊は一気に壊滅し、高虎の甥・藤堂高刑も討ち死にしました。

一時は盛親隊が優勢だったものの、その後井伊直孝隊が藤堂隊の援軍に駆けつけると、不利な状況に立たされた盛親はやむなく大坂城へ撤退しました。

最期

夏の陣の敗退後、盛親は蜂須賀至鎮の家臣に捕らえられ、伏見まで護送されます。

自刃せず捕らわれたことを徳川方に蔑まれると、盛親は「一方の大将たる身が軽々と自刃するものではない。折あらば再び兵を起こすつもりである」と答えたといいます。

その後盛親は京都を引き回された後、六条河原で斬首されました。また、盛親の長男から五男の息子たちも捕らえられた後に処刑されたため、長宗我部家は滅亡しました。盛親の墓は、蓮光寺(京都市下京区)にあります。

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