1565年~1587年(享年22歳)
長宗我部 信親(ちょうそかべ のぶちか)は、土佐国の戦国武将です。知勇兼備の将で、家臣や領民からの人望も厚かったといわれています。
長宗我部次期当主として、父・元親に将来を嘱望されていましたが、九州征伐で戦死しました。
長宗我部信親の生まれ
信親は永禄8年(1565年)、土佐国(高知)の大名・長宗我部元親の嫡男として生まれました。
天正3年(1575年)頃、元親が織田信長と誼を通じた際に信親は元服し、信長の「信」を与えられて信親と名乗ります。
その後は元親を補佐して土佐の豪族と戦い土佐統一を成し遂げましたが、天正13年(1585年)、豊臣秀吉による四国征伐を受けて長宗我部軍は豊臣に降伏しました。
以後、長宗我部家は豊臣政権下で土佐の戦国大名となります。
九州征伐・戸次川の戦い
天正14年(1586年)、豊後の大名・大友宗麟が、薩摩の島津義久が侵攻してくると秀吉に救援を求めました。
秀吉は大友軍の援軍として仙石秀久を主将とし、元親・信親親子を加えて出陣を命じました。
島津家久が大友家の鶴ヶ城を攻撃すると、秀久は救援のためすぐに戦うことを主張しましたが、元親は秀吉の命令通り、加勢を待ってそれから参戦するべきと意見が分かれました。しかし、秀久は独断で自分の考えを通し、出陣を命令します。
秀久の判断を信親は「罠に臨む狐のごとし」と批判し、また自らも死を覚悟して戦いに臨みました。
結果、信親の予想通り、先陣隊の秀久が真っ先に島津軍によって壊滅され、長宗我部親子は乱戦状態で互いを見失いました。
最期
戸次川の戦いに豊臣軍は敗北し、元親は逃げ延びたものの、先陣隊にいた信親は決死の覚悟で戦ったため、島津軍・鈴木大膳に討たれて亡くなりました。
信親の墓は、長宗我部家の菩提寺・雪蹊寺(高知県高知市長浜)にあり、戸次川戦没者の供養塔も建てられています。
戦後、仙石秀久は独断で軍を指揮して敗戦したことから、秀吉によって改易されました。
将来を期待していた信親を失って以降、元親は憔悴し、生活が一変したといわれます。更に戸次川の戦いで多くの若い人材を失ったことや後継者争いなどが起こり、長宗我部家は徐々に、大名として衰退していきました。
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