1569年~1615年(享年47歳)
大野 治長(おおの はるなが)は、豊臣秀吉に仕えた武将です。

秀吉亡き後は淀殿や母・大蔵局と共に権勢を振るい、大坂夏の陣で秀頼、淀殿の助命嘆願をするも認められず、大坂城で共に滅びました。

生まれ

治長は永禄12年(1569年)に丹後国丹後郡大野村、もしくは尾張国葉栗郡大野村で生まれました。大野家は元々、石清水八幡宮の祠官(しかん)の家で、神職を失って美濃国に流れてきた大野治定(治長の祖父)が、織田信長の命令で大野城(愛知県一宮市)を築きました。

父は豊臣秀吉の家臣・大野定長、母の大蔵局はお市の方の侍女や、茶々、豊臣秀頼の乳母を務ており、弟に治房(はるふさ)、治胤(はるたね)、治純(はるずみ)の三人がいます。また、母の縁から浅井長政の居城・小谷城で幼少期を過ごした治長は、同じ年の茶々とは兄弟のように育ったともいわれています。

豊臣政権

侍
織田信長から離反した長政が倒され、お市の方と再婚した柴田勝家の死後、治長は茶々や大蔵局と共に豊臣秀吉に仕え、約3,000石の馬廻衆として取り立てられました。

天正17年(1589年)に父・母の功績により和泉国佐野(泉佐野市)と丹後国大野に計1万石を父と共に与えられた治長は、大野城を拠点として領国運営を行います。

秀吉没後は豊臣秀頼の側近として仕え、淀殿(茶々)や母・大蔵局と共に権勢を振るいましたが、慶長4年(1599年)に徳川家康の暗殺計画首謀者の一人として嫌疑が掛けられ、下総国に流罪となりました。

この事件に関しては反徳川派であった石田三成が、挙兵するのに邪魔な存在となる非戦派の治長らを追放するために仕組んだという説もあります。

慶長5年(1600年)、治長は関ヶ原の戦いに東軍として参戦し、功績を挙げたことから家康に罪を許され、所領も1万5千石に加増されました。

戦後、家康の命で「豊臣家への敵意なし」という書簡を持ち、大坂城へ使者として向かった治長は、そのまま大坂城に残ります。その後豊臣家の家老・片桐且元が追放されると、治長は豊臣家を主導する立場となりました。

大坂冬の陣

大坂城
大阪城(大阪市中央区)

且元追放後、徳川軍との徹底抗戦を主張した淀殿は真田信繁(幸村)、毛利勝永、後藤又兵衛、長宗我部盛親など各地から浪人を召抱えていました。

しかし毛利や島津など西軍の大名達が味方に付かず、総大将に任命される予定であった織田信雄も徳川に付いてしまったことから、勝利は絶望的と判断した治長は和議を行おうとしましたが、浪人達や主戦派の家臣から反対を受けます。

やむなく治長は冬の陣に指揮官として参戦しましたが、圧倒的な徳川の兵力にやがて豊臣軍は追い込まれていき、徳川方から和睦が持ちかけられると、治長は織田有楽斎と共に徳川方と交渉を行いました。

治長は和睦の条件として次男・治安を人質として家康に差し出しましたが、城内では和睦に反対する意見も多く、治長はその後闇討ちに遭って負傷し、これは主戦派の弟・治房による襲撃ともいわれています。

また、和睦条件で大坂城の外堀を埋めることを承諾したことから、治長は周囲に激しく非難されて発言力を失い、木村重成を始めとする主戦派に主導権を奪われました。

大坂夏の陣

慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で、治長は秀頼の妻・千姫や淀の妹であるお初(常高院)を大坂城から脱出させ、千姫に己の切腹を条件に秀頼母子の助命を嘆願する嘆願書を託します。

千姫とお初の脱出後、淀殿や秀頼、大蔵局らと大坂城の倉庫まで追い詰められた治長は「落城寸前まで抵抗し続けた以上、助命は認められない」と家康に判断を任された徳川秀忠の指揮により、助命嘆願は拒絶され、最後は大蔵局や淀殿、秀頼と共に自刃しました。

治長と茶々

姫
治長と茶々は同じ環境で育ち、茶々が浅井、柴田、豊臣と渡っていく際に治長もそれに従っていたため、二人の関係は信頼関係は非常に厚かったとされています。

治長に家康暗殺の容疑がかかったとき、茶々は必死に治長を庇ったともいわれ、そのことから茶々と治長は密通しているのではという噂も当時流れました。

また、秀吉の正室や多くの側室が誰も秀吉の子を身ごもらず、茶々だけが二人も子を産んだことも当時怪しまれており、治長が父親ではという説もあったようです。

ただ、茶々が生んだ子以外に石松丸(羽柴秀勝)という子が秀吉にいたという説もあることから、秀吉に生殖能力がなかった訳ではなく、そもそも治長と淀の密通も噂程度のもので、治長と茶々に関する記録にも一貫性がないことから否定説もあります。

大野治房

侍
生没年不詳
大野 治房(おおの はるふさ)は、幼少より豊臣秀頼に近習として仕えました。

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では主要武将の一人として指揮を執り、蜂須賀隊への夜襲を敢行して勝利しましたが、その後豊臣・徳川が和睦すると、主戦派の治房は兄と対立します。

慶長20年(1615年)に和睦が破綻して夏の陣が始まると、治房は郡山城の戦いや樫井の戦いに参戦しましたが、豊臣方が壊滅すると治房は大坂へ退却しました。

大坂城の決戦では岡山口の主将として4,600の軍勢で布陣し、徳川勢先鋒の前田隊を井伊隊、藤堂隊と共に攻撃し、混乱に乗じて徳川秀忠の本陣まで攻め込みました。

しかし次第に秀忠軍が反撃に転じ戦況が不利になると、治房は敗兵を収容して城内に撤退し、その後、城が炎上すると玉造口から逃亡しました。

慶安2年(1649年)、京都所司代・板倉重宗により治房の捜索が行われましたが、生存は結局不明で、治房のその後の消息については、大坂城で亡くなったという説、大坂城からの逃亡中に落ち武者狩りに遭った説、京で捕縛され処刑された説、播磨国姫路に逃亡して池田家臣の内田勘解由に匿われた説など諸説あります。