1540年~1595年?(享年55歳?)
木曾 義昌(きそ よしまさ)は、信濃木曾谷の領主で、甲斐武田家に仕えた武将です。
信玄没後は徳川、豊臣に臣従し、下総国阿知戸へ領地を映されて貧しい土地を開拓し、名君として名を馳せました。
千葉県旭市の名称は、義昌の先祖・源義仲が旭将軍と呼ばれたことに由来するといわれています。
木曾義昌の生まれ
義昌は天文9年(1540年)、 木曾義康の嫡子として生まれました。当初、木曾家は小笠原家や村上家などの信濃国衆らと武田信玄の信濃侵攻に対抗しましたが、弘治元年(1555年)に武田家に降伏してその配下となりました。
木曾家は美濃・飛騨との国境地帯の木曾谷を治めており、信玄は義昌に信玄の三女・真理姫を娶らせ、武田家の親族衆となった木曾家は領地を安堵されました。
以後、木曾の治世は全て武田に監視される体制となり、木曾谷は武田家の美濃・飛騨への侵攻の最前線基地となりました。
甲州征伐
信玄没後、武田当主となった武田勝頼は天正10年(1582年)に長篠の戦いで敗北し、
義昌は織田家と内通して弟の上松義豊を人質に出し、勝頼から離反します。
義昌の離反を受けて、勝頼は武田信豊ら討伐軍を木曾へ派遣しましたが、義昌は地の利を得た戦術と織田信忠の援軍を得て討伐軍を撃退しました。
しかし、その後人質として武田軍にいた義昌の70歳の母、13歳の嫡男・千太郎、17歳の長女・岩姫が新府城で処刑されました。
本能寺の変
武田家滅亡後、信長に仕えることになった義昌は木曽の他・松本・安曇地方経営の拠点としましたが、僅か3ヶ月後に本能寺の変が起こり、信濃も新たな支配権を巡って争いが起こります。
織田家の森長可や滝川一益が領地を捨てて木曽へ逃亡してくると、義昌は織田軍にいた信濃国人衆の人質を受け取り、領内の通過を認めます。
また、一説には義昌は美濃へ逃げる森長可の命を狙ったものの、長可が木曽福島城に押し入り岩松丸(木曾義利)を人質に取ったことで、義昌は長可の撤退を助ける役目を負わされたという説もあります。
やがて天正壬午の乱が起こると義昌は北条氏直に従属しましたが、
北条軍が甲州黒駒合戦で敗北した後に徳川家康に寝返り、安曇・筑摩両郡および木曽谷の安堵を受ける約束を得ました。
小牧・長久手の戦い
天正12年(1584年)、家康と羽柴秀吉が対立した小牧・長久手の戦いで、義昌は家康との盟約を反故し、三男・義春を人質として秀吉に恭順しました。
義昌は木曽領へ侵攻した徳川軍を撃退し、木真田家や小笠原家と信濃で徳川軍を圧迫しましたが、天正13年(1586年)に中部で巨大地震が起こり、秀吉の勢力圏や信濃の隣国・飛騨と美濃も震災被害を受けました。
一方、徳川の領地である三河以東の被害はほとんどなかったことから徳川家の国力は保たれ、その後秀吉は徳川家への態度を変えて両家は講和し、木曾家、真田家、小笠原家など信濃の諸将は家康の与力大名に配属されました。
豊臣政権下
天正18年(1590年)、天下を統一した秀吉は諸大名の大規模な領地替えを行い、木曾家は信濃から下総国阿知戸(千葉県旭市網戸)へ領地を移されます。
その後、木曽谷は豊臣家の直轄領になったことから、木曾の土地資源であった山林(木材)に着目した秀吉が木曾を没収したともいわれています。
木曾家にとっては石高を大幅に削られた上、かつて寝返った家康の隣国に配置される条件の悪い領地替えでしたが、義昌は阿知戸の湿原が多く貧しい土地を整備し、城下町や道路の整備、灌漑工事、田畑の開拓事業など町作りを行いました。
義昌は木曽谷から僧侶を招いて領内に東漸寺(木曽家の菩提寺)を建立した後、文禄4年(1595年)~慶長元年(1596年)頃に病没しました。
義昌の墓所は東漸寺(千葉県旭市)にあり、遺体は阿知戸領内の湖に水葬されましたが、水葬が行われた湖は現在干拓され、跡地の一角に木曾義昌公史跡公園があります。
子孫
木曾家は慶長5年(1600年)に改易にされますが、その理由は義昌から家督を継いだ次男・義利が叔父の上松義豊を殺害するなどの乱暴な振る舞いが原因という説や、木曽家は源氏の名門だったため、徳川家の目障りになった説、小牧長久手で木曾家から寝返りを受けた報復を家康が行った説など諸説あります。
浪人となった義利は蒲生家の伊予松山転封に随行して同居したとされ、義昌の三男・義春は豊臣家に仕えて大坂の陣で戦死し、四男・義一は母の真理姫と共に隠棲しました。