1558~1630(享年73歳)
織田 信雄(おだ のぶかつ)は、織田信長の次男です。伊勢北畠家に養子入りして第10代当主となった後、信長に仕えました。江戸時代は大和国(奈良県)・宇陀松山藩の初代藩主、上野国(群馬県)・小幡藩主を務めました。
織田信雄の生まれ
信雄は永禄元年(1558年)、尾張国(愛知)の大名・織田信長の次男として生まれました。母は生駒家宗の娘・吉乃で、幼名は茶筅丸(ちゃせんまる)です。
永禄12年(1569年)、父・信長により伊勢国の北畠家に養子として送られ、北畠具房の養嗣子となりました。その後、北畠家の当主となった信雄は信長の命令で北畠家の一族や家臣らを粛正し、北畠家の実権を握ります。
その後は織田家の武将として紀州征伐や石山本願寺攻め、播磨攻めなどに参戦しました。
天正伊賀の乱
天正7年(1579年)信雄は信長に無断で伊賀を攻めましたが、伊賀十二人衆に敗退しました。信雄は信長に「反省する気がないなら勘当も考える」ときつく叱責されます。
二度目の伊賀攻めでは信長に従って参加し、信雄は叔父の織田信包や織田家重臣の丹羽長秀、滝川一益らと共に伊賀へ侵攻し平定しました。この功により、信勝は伊賀内に3つの群を与えられます。
本能寺の変
天正10年(1582年)、信長が明智光秀の謀反で討たれると、信雄は光秀を討とうと出兵しましたが、当時兵の大部分を織田信孝に預けていたため兵力が揃わず撤退しました。
戦後の清洲会議では信雄と信孝が家督を争ったものの、織田家重臣の柴田勝家や羽柴秀吉らによって織田家当主は三法師(織田秀信)となり、信雄と信孝は後見役となりました。
信雄は信長の遺領配分で尾張・伊賀・南伊勢約100万石を相続し、三法師は信孝が岐阜城で預かります。
賤ヶ岳の戦い
その後、信孝が三法師を擁立して織田家の実権を握るようになると、織田家は信雄・秀吉と信孝・勝家で対立して天正11年(1583年)に賤ヶ岳の戦いが起こりました。
信雄は秀吉に付き、信孝と三法師のいる岐阜城を攻めて信孝を降伏させました。その後、信孝と勝家は自害し、勝家方の滝川一益も秀吉に降服して長島城を信雄に差し出しました。
信雄は北伊勢・伊賀を加増され、三法師の後見役として安土城に入りました。信雄は織田家の当主代行となったものの、秀吉は信雄の当主の座を認めなかったため信雄と秀吉の関係は悪化していきます。
小牧長久手の戦い
1584(天文12)年、信雄は徳川家康と組んで秀吉に内通した織田重臣3人を殺害し、織田・徳川連合軍は秀吉と戦いました。
信雄は羽柴方の池田恒興や森長可らを討ち取り、伊勢方面では滝川一益、九鬼嘉隆らを撃退するなど活躍しましたが、羽柴秀長、蒲生氏郷、堀秀政など羽柴軍に侵攻されて連合軍側の城が次々に落城すると、信雄は秀吉と和睦しました。信雄は家康に無断で和睦を結んだため、信勝を擁立して挙兵した家康は戦う意義を失くし撤兵しました。
和睦の条件として信雄は伊賀と伊勢の一部を秀吉に割譲し、秀吉は信雄を正式な織田家の当主としました。その後、秀吉が信雄より高い地位の関白に就任すると、以降は秀吉に臣従し、富山の役、九州征伐、小田原征伐などに従軍します。
小田原征伐
天正18年(1590年)の小田原征伐で北条氏政・北条氏直を降した後、信雄は家康が関東へ国替えになったことから、跡地の三河・遠江への転封を命じられます。しかし、信雄が尾張からの移動を拒否すると秀吉の怒りを買い、尾張、伊勢、伊賀の領地を没収されて改易されました。
改易後、信雄は流罪となりましたが、その後家康の仲介で赦免されて御伽衆に加えられ、大和国内に1万8000石を与えられました。
関ヶ原の戦い
秀吉没後、関ヶ原の戦いで信雄は戦いに参加せず傍観する立場を取っていましたが、戦後の論功行賞で家康によって改易されます。
その後は豊臣秀頼に仕えましたが、慶長19年(1614年)の大阪冬の陣では徳川に付いたため、戦後は大名に復帰し、家康から大和国宇陀郡、上野国甘楽郡など5万石を与えられました。
江戸時代
大名復帰後、信雄は家康、秀忠、家光と将軍3代にわたって仕えます。また秀忠の次男・徳川忠長に娘を娶らせましたが、しかし後に忠長は改易され、やがて信雄も隠居しました。
信雄の隠居後、四男・織田信良は上野小幡、五男・織田高長は大和宇陀松山を統治しましたが、その後信良が早逝したため、小幡藩は信雄が政治を行いました。
小幡藩で信雄は養蚕業に力を入れ、それはやがて隣の七日市藩にも伝わり、小幡藩一体は日本有数の養蚕地帯となります。明治時代になると伊藤博文によって富岡製糸場が造営されました。また、信雄が造営させた楽山園(群馬県甘楽町小幡)は国指定の名勝地となっています。
寛永7年(1630年)、信雄は京都北野邸で死去し、上野小幡は孫(信良の息子)の織田信昌が受け継ぎ、信雄の隠居地であった大和宇陀郡は五男・高長が相続しました。