1566年~1658年(享年93歳)
真田 信之(さなだ のぶゆき)は、真田家の武将で、真田信繫(幸村)の兄です。関ヶ原の戦い後は信濃上田藩、信濃松代藩の初代藩主となり、江戸幕府を支えました。
真田信之の生まれ
真田信之は永禄9年(1566年)、信濃国(長野)で真田昌幸の長男として生まれました。
昌幸は武田信玄に仕えていたため、信之は武田家で人質として暮らしていましたが、天正10年(1582年)に織田信長によって武田家が滅ぼされると、信之は父のいる上田へ逃げ延びました。
天正10年(1582年)に本能寺の変で信長が死去すると、武田の遺領である甲斐・信濃を巡って北条、徳川、上杉が争う天正壬午の乱が起こります。
この戦いで信之の父・昌幸は上杉景勝に従属して上杉家の援助を受ける代わりに、次男の信繫を人質として差し出しました。信之は手勢800騎を率いて北条方の5,000が防衛する手子丸城を一日で奪還する手柄を挙げました。
第一次上田合戦
天正13年(1585年)、上杉家に臣従した真田家は、第一次上田合戦で徳川家康と戦います。
信之は戸石城(長野県上田市)に300の兵と着陣し、城の西側を流れる神川を徳川軍が渡り始めると襲撃、奇襲し、戦いは真田家の勝利となりました。
その後真田家は上杉景勝を通して豊臣秀吉に臣従し、天正17年(1589年)に家康とも和睦が成立すると、信之は本田忠勝の娘であり家康の養女・小松姫を妻に迎えます。
天正18年(1590年)の小田原征伐で、信之は上野松井田城を攻めて戦功をあげると、沼田領が真田家の所領として与えられ、信之は沼田城主になりました。
関ヶ原の戦い
秀吉の死後、慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが起こると父・昌幸と弟の信繫は石田三成側の西軍に付きますが、信之は家康側の東軍に付きました。
信之が東軍についたのは、家康の養女が自分の妻であることと、西軍・東軍どちらが敗北しても真田家の血筋を存続させるためといわれています。
信之は信繁が防衛する戸石城を攻めるよう命じられますが、信之は真田同士の消耗を避けるため開城を要請し、信繫も兄の意に従って戸石城を開け渡すと、昌幸のいる上田城へ撤退しました。
江戸幕府
関ヶ原の戦いは東軍の勝利に終わりました。信之は義父・本多忠勝と共に昌幸と信繫の助命を嘆願し、助命が許されたため紀伊国九度山へ流罪となります。
戦後、信之は昌幸の旧領と3万石の加増を与えられ、9万5,000石の上田藩主となります。
信之が上田領を継いだ頃は上田合戦や浅間山噴火の影響で土地は荒廃しており、信之は城下町の整備、年貢の減免などを行って領地の復興に努める一方、九度山に流罪となった昌幸と信繫への援助も行っていました。
元和8年(1622年)には信濃松代に加増移封され13万石の所領を得ます。この頃大坂の陣が起こりますが、信之は病気で出陣できず、長男の信吉と次男の信政が出陣しました。
真田信之の最期
明暦元年(1656年)、信之は93歳で亡くなりました。信之は長命であったものの若い頃から病気がちで、50代からはマラリアを病んでいました。
当時、マラリアは瘧(おこり)と呼ばれており、感染すると高熱や頭痛、吐き気などの症状が起こり、信之は度々マラリアの発作に苦しんでいたようです。信之の死因は病死、または老衰といわれています。
信之が亡くなると家臣や領民はその死を嘆き、出家する者が後を絶たなかったといい、庶民の間でも信之への仏事が行われ、信之が人々から慕われていた名君であったことが伝わっています。
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