平四つ目結

平四つ目結
1514年~1561年(享年47歳)
尼子 晴久(あまご はるひさ)は、出雲国の戦国大名です。

出雲を拠点として隠岐・備前・備中・備後・美作・因幡・伯耆の八か国の守護職を兼任し、生涯にわたって諏訪の大内義隆、安芸の毛利元就らと戦いました。




尼子晴久の家紋

平四つ目結
尼子家の家紋は平四つ目結です。目結(めゆい)紋の一種で、目結とは染物の一種、纐纈(こうけち)染めの模様です。

尼子家の主筋に当たる近江守護・京極家が使用していた家紋で、一族の結束の強さを表す意味があります。

尼子晴久の生まれ

晴久は永正11年(1514年)、出雲国(島根)の武家・尼子政久の次男として生まれました。幼名は三郎四郎(さぶろしろう)といい、政久の嫡男が夭逝すると、晴久が政久の跡目となりました。

永正15年(1518年)、出雲の国人・桜井宗的との戦いで政久が戦死すると、晴久は祖父・経久の跡目となり、天文6年(1537年)に経久が隠居すると、晴久は家督を継いで尼子家の当主になりました。

吉田郡山城の戦い

天文7年(1538年)、晴久は因幡国(鳥取県)を平定させて播磨国(兵庫県)に侵攻し、石見・因幡・播磨の守護職・赤松晴政と戦って勝利します。

勢力を拡大させた晴久は天文9年(1540年)に安芸の国人・毛利元就を攻めましたが、尼子軍は兵数で勝っていたものの、元就率いる毛利軍の籠城戦法と、援軍としてやって来た戦国武将・陶晴賢陶隆房率いる大内軍に攻められて敗北しました。

第一次月山富田城の戦い

天文10年(1541年)に祖父・経久が死去すると、尼子家勢力下に加わっていた国人領主の大半が、周防国の大名・大内家に寝返り、翌年には大内義隆率いる大内軍が尼子家の居城・月山富田城まで攻め込んできました。

しかし、戦いが長期戦長引いてくると、次第に大内軍は疲弊していき、尼子家から大内家に寝返った国人らは、再び寝返って尼子軍に付き、一気に優勢となった尼子軍が勝利しました。

天文20年(1551年)には義隆が家臣・陶隆房の謀反を受けて大内家が滅亡し、翌年に晴久は将軍・義輝から出雲・隠岐・伯耆・因幡・美作・備前・備中・備後の守護を任されて山陰山陽8ヶ国の守護大名となりました。

降露坂(ごうろざか)の戦い

永禄2年(1559年)、周防国・長門国へ侵攻していた毛利元就が石見銀山(島根県太田市)奪取のため、その周囲にある尼子家の諸城へ攻めてきました。

諸城の一つである温湯城(ぬくゆじょう)は毛利軍に陥落させられましたが、山吹城は城主・本城常光が抵抗を続けたことで、毛利軍は撤退しました。

更に、撤退途中の毛利軍に常光が追撃を仕掛けたため、突然のことに毛利軍は混乱状態となり、元就も命からがら逃げることになり、毛利家は晴久の存命中に石見銀山を奪取することはできませんでした。

最期

永禄3年(1561年)、晴久は月山富田城内で急死しました。

死因は脳溢血など急性の病死といわれていますが、敵対勢力による毒殺説などもあります。ただ、晴久と戦った毛利元就は、「一度で良いから旗本同士で戦いたかった」と好敵手・晴久の死を悼んだといわれています。

晴久の死後、尼子家の家督は嫡男・尼子義久が継ぎました。

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